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2009年1月

2009年1月31日 (土)

一号機関車

PhotoPhoto_2  さいたま市の鉄道博物館へ、マイカーで迷いながら向かった。 浦和の消防署の方の親切な道案内をいただき感謝している。 大宮までのメインストリートを通って会場に辿り着いた。 日曜日とあって鉄道マニアの客でごった返していた。

 国鉄150型蒸気機関車が最初に目にとまった。 明治5年(1872)、日本で最初の鉄道開業に際してイギリスから輸入された。 

 新橋~横浜間鉄道開業後は、客車貨車で使用された。 現在は、国の重要文化財に指定されている。

Photo_3Photo_4Photo_5Photo_6  約140年たった鉄道機関車が、常磐線を走っている。 自動車がまだ出回っていなかった頃は、国鉄の貨車が米麦などの物資を運んでいた。 もちろんコンテナなどは見られなかった。

2009年1月29日 (木)

北風と太陽

Photo_5Photo_6Photo_7 北向きの人家のそばの畑は、冬の間太陽がほとんど当たらない。

 下仁田ネギ・ニンジン・ラッキョウが霜柱に囲まれて辛抱強く春を待っている。

Photo_8Photo_9Photo_10 少し離れた畑の、キャベツ・ソラマメ・ホウレンソウは太陽に当たるので青々と茂っている。 霜柱も日中には溶けてしまう。 太陽のエネルギーの偉大さを垣間見る光景だ。

 きょうは、寒中にもかかわらずニラの植え替えを行った。 ニラは地下にひげ根を張って冬越ししている。 3年に一度くらい植えかえてやると、よいニラが収穫できる。 深めに穴を掘って、落ち葉ととんぷんを入れた。 霜にやられないように土をかけて踏みかけてやった。 たぶん大丈夫だろう。

 ヨドバシカメラで買ったデジカメ RICOH R10 で撮った写真を載せた。 イクシーは3倍の倍率だが、これは7.1倍で新機種ができたので値下がりした代物だ。。

五重塔

054Photo  昭和48年に再建された、浅草寺の五重塔である。 基壇内部には、永代供養のための位牌を納めた霊牌殿、塔の最上層にはスリランカから将来した仏舎利を安置している。

 昭和40年頃、中学生を引率して薬師寺を訪ねた。 坊さんの巧みな説法と東塔の面影が印象に残っている。 現在の煌びやかな寺院とは異なった、さびれた中にも優美な面影がただよっていた。

 国宝の東塔は、奈良時代にさかのぼる唯一の仏塔である。 仏塔は、古代インドにおいて仏舎利(釈迦の遺骨)を祀るため造られ始めたという。

 優美な姿の三重の塔を眺めながら、ガイドの説明に聞き入っていた。 屋根から天に向かって突き出た相輪のお話に移った。 上から順に、宝珠・竜車・水煙・九輪(宝輪)と続いていった。 『水煙とは火事を避けるための装飾で、この青銅製の水煙には飛天像が透かし彫りされており、奈良時代の高い工芸技術を現代に伝えています。』 マーチャンにとっても初めての懐かしい旅でもあった。 

2009年1月28日 (水)

本堂の天井画

Photo_2Photo_3  本尊の聖観音を祀る、東京都最古の寺院浅草寺の本堂にお参りした。 聖観音は約5.5cmの金色の像だというが、秘蔵のため拝顔できない。 近年には、徳川家の祈願時であった。

Photo_4Photo_5Photo_6   本尊の観音像を祀るため、本堂は観音堂とも呼ばれる。 外陣に入るとみごとな天井画が掲げられていた。

 中央には、川端龍子筆「龍の図」 両側には、堂本印象筆「天人散華の図」が 大正~昭和にかけての日本画家の両巨匠によって描かれていた。

 この場に立って、源氏物語の講座「光源氏・藤壺 宿命の決断(賢木巻)」、を彷彿させる雰囲気があった。 物の怪や怨霊がはびこるこの時代の雰囲気、そして 宮廷に侍る着飾った女性を連想させる。 

 明け果つれば、二人していみじきことども聞こえ、宮は、なかばは亡きようなる御けしきの心苦しければ、・・・・   桐壷の帝が、東宮と源氏を重んずるよう遺言して崩御した後。 藤壺を忘れられない源氏が、ひつように迫るくだりである。 

 藤壷は、権勢を盛り返した右大臣の娘 弘徽殿の大后の圧迫が強まる中で、東宮の将来を懸念し、迫る源氏を避けるべく出家を決意する。 そして、桐壷院一周忌の法要のあと、御八講の結願の日、藤壷は落飾した。

2009年1月27日 (火)

浅草寺お参り

Photo  賑やかな仲見世を通り過ぎると、宝蔵門が開けた。

034_2Photo_5  左右に仁王(金剛力士)像を安置することから、「仁王門」と呼ばれていた。

 マーチャン中学2年生の遠足、江の島・鎌倉旅行 はバスの故障で浅草のこの地で引き返すことになった。 当時の浅草寺は広い境内があって、遊園地で賑わっていた。 ガリ版で綴った鎌倉の古戦場に夢をはせて、この遊園地で電動自動車に乗っていた侘びしい思い出がある。

 関東大震災と東京大空襲のため焼失してしまった浅草寺の建物が、その後次々に再建された。 この仁王門は、マーチャンが訪れてから10年後に建てられた鉄筋コンクリートである。 公民館に勤めていた時、運営委員会の人たちと浅草へやってきた。 人混みの中を歩き疲れて、この門の柱にもたれてしゃがみ込んでしまった。 そして、公私ともお世話になったS委員長とたわいもない会話を交わしていた。 そのSさんが3年後、不治の病で亡くなられてしまった。 明るくて元気だったSさんとの思い出の宝蔵門でもあった。

2009年1月26日 (月)

涙の復活朝青龍

Photo  日本の国技とされる大相撲の本場所での幕内最高優勝力士に贈られる賜杯と優勝旗を、朝青龍がもぎとった。

 今場所の朝青龍は、土俵一筋に集中していた。 土俵入り・勝負の場面でも秘めた躍動感を感じた。 それにしても、マスコミがあれだけ叱責していた朝青龍に対して、観衆は大声援を送っていた。 憎らしいほど強くて勝ちまくっていた朝青龍に対しては、マーチャンも嫌悪感をもっていたはずだ。 しかし、どん底に陥った朝青龍に対して白鳳をもしのぐ声援を観衆と一緒に共感した。

Photo_3Photo_4Photo_5Photo_6Photo_7 千秋楽結びの横綱決戦を特等席のテレビで観戦した。 久しぶりに興奮した。 勝負の世界の厳しさと試練を乗り越えた、おもいが顔に現われていた。  朝青龍が日本のヒーローになった一瞬でもある。

2009年1月25日 (日)

正月の飾り物

Photo_2   雷門から浅草寺までの約250mの仲見世は、正月飾りが花盛りであった。 昔懐かしい飾り物に触れて、思い出がよぎってくる。

Photo_3Photo_4Photo_5  樺太から引き揚げて来た頃、祖父母の家で過ごしていた。

 元日の朝、霜柱の立つ家裏の井戸で若水を汲んだ。 「若水汲みとお供えは、若者の仕事だぞ!」 虎之助おじいさんの厳命だった。 早朝の庭のはき掃除と、廊下の雑巾かけも日課となっていた。

 このおじいさんと将棋の相手をされていた。 飛車角抜きの上に、負けると香子・桂馬の順に抜かされる。 悔しくて、将棋の本を読み始めた。 石田流の駒組みで、祖父を打ち負かした。 負けず嫌いの祖父は、将棋を指さなくなってしまった。 最近、負け続けていた囲碁の同好会から足が遠くなってしまった。 祖父の遺伝子が残っているようだ。

Photo_6Photo_7  厳しい経済情勢の真っただ中で、丑年を迎えた。 この華やかな飾りもどこか空々しい感じがした。

2009年1月24日 (土)

日本風景の雷門

PhotoPhoto_2Photo_3Photo_4  浅草一丁目にあるお馴染みの雷門に来た。 浅草寺の山門で、正式名称は風雷神門である。

 まだ正月ということもあって、観光客でごった返していた。 英語・韓国語・中国語が飛び交うお客も目立つ。 雷門は、日本を象徴する風景として、外国向けの宣伝に用いられているという。

 1960年、パナソニックの創始者、松下幸之助が門および大提灯を寄進し現在の雷門が成立した。 朱塗りの山門の右側には、風神 左には雷神が配され、中央には浅草のランドマーク大提灯が吊り下げられている。 重さ600Kgを超える提灯は、強風時には破損を防ぐため畳まれるという。

 お登りマーチャンは、両国から浅草へ向かうルートを娘のメールで知った。 総武線浅草橋から地下鉄浅草線に乗り換えた。 それにしても秋葉原駅で総武線に乗り両国へ向かうのは複雑だ。 この日は、反対のお茶の水へ行ってしまった。 挙句の果て、お茶の水から秋葉原に戻るつもりで乗った電車が、神田に出てしまった。 猪突猛進、あきれてものが言えない。

2009年1月23日 (金)

土俵入り

PhotoPhoto_2  今場所は、朝青龍の登場とあって賑わっている。 火曜日なら当日券が買えると思い、正午前にゲットして浅草へ向かう。

 歩き疲れて、3時前に二階席の2列目に腰をおろした。     高い入場券の割には、力士の姿が小さい。 テレビ観戦は、特等席だった。

Photo_3Photo_4111Photo_5  縦割り社会の伝統を厳格に守る相撲の土俵入りである。 十両土俵入りと幕内土俵入りは、力士の数や観客の入りがかなり違っていた。 西の横綱朝青龍に続いて、東の横綱白鳳の土俵入りである。 心なしか朝青龍には躍動感を感じる。

 十両の取り組みが始まった。 力士が時間を知らせるタオルを手にして入ってきた。 そのタオルを幕下にいる係に手渡していた。 幕内力士の入場前には、付き人が分厚い座布団とタオルを運んできた。 裸一貫で、力のあるものが上位に昇進して特権を得ていく社会である。

2009年1月22日 (木)

郷土の力士

PhotoPhoto_2  大相撲一月場所十一日目、郷土の力士 稀勢の里・雅山が土俵に上がった。 ともに勝ち星を挙げてマーチャンを喜ばしてくれた。 おやじと一緒に両国国技館へ訪れてからしばらくたつ。 あの頃は、武双山が活躍していた。

 テレビが普及して間もない頃、学校帰り電気屋の店頭でテレビ観戦していた。千代の山の時代だった。 ラジオの実況放送を通して、大内山が土俵ぎわまで追い詰めながら、栃錦の首投げで負けてしまった記憶もある。 土浦出身の若筑波は、四中の教え子だった。 同じころ、相撲を志して3年くらい修業した教え子がいた。 「厳しい3年間の体験は、今に生きています!」 と言ってくれた。

Photo_3  大相撲博物館で、横綱男女ノ川の写真を見た。 昭和11年32歳で横綱に昇進した郷土力士である。 茨城県つくば市出身と書かれていた。

 この日の番付表とファイルが入り口で渡された。 ファイルには、稀勢の里の写真で埋め尽くされていた。 牛久市後援会から贈られた化粧まわしをつけた凛々しい姿があった。 郷土の期待と日本相撲協会待望の力士に成長していた。

2009年1月21日 (水)

夕焼け空

PhotoPhoto_2  ひたちなか市で、数十年ぶりにお会いした二人の友と別れて帰途についた。 大洗近くの那珂川の大橋だろうか、夕日に魅せられて高速道路の路側帯に車を止めた。

 更に進んで、友部JCT近くの路上から筑波山近くに沈む夕陽をゲットした。 冬の夕焼け空が、寂しげだった。 この光景をみて、源氏物語を思い起こした。 先週の講座は、「宿命の父母(紅葉賀巻)」であった。 光源氏と藤壷の宿命の契りから、藤壷は皇子を出産。 帝のお喜びはこの上ないが、源氏に瓜二つの皇子のお顔を拝して、源氏と藤壷の悩みと恐れは深まるばかりである。

 当時は、赤ちゃんの泣き声である 「おぎゃー」 と泣くことを、「いかいか」 と表現している。 また、当時は穢れ(けがれ)として、死や血を忌み嫌った。 出産の時は、出血を伴うため産屋が使われた。

 「いかさまに昔むすべる契りにて この世にかかるなかの隔てぞ かかることこそ心得がたけれ」 と源氏は心苦しき思いを歌に詠んだ。 二人の間を取り持った命婦は、「見ても思ふ見ぬはたいかに嘆くらむ こや世の人のまどふてふ闇 あわれに心ゆるびなき御ことどもかな」 とおいたわしくお悩みの絶えぬお二人のことを気遣って、そっと申し上げた。

 

2009年1月20日 (火)

シーサイドトレイン

PhotoPhoto_2  砂丘ガーデンにシーサイドトレインがやってきた。 青い海、緑の草原、白い砂浜を眺めながら、潮風にのって乗り降り自由で周遊できる。 このトレイン DOTTO には何組かの客が笑顔で乗っていた。

Suno  砂丘の頂上から、園内を見下ろした。 雪のように見えるのは、張りつめた芝生を保護するための覆いのようだ。 射爆場だったこの一帯は、マツなどの樹木が消えてしまったのだろうか。

 マーチャンの記憶にある樺太の山々は、丸裸が目立っていた。 エゾマツやトドマツの巨木が山の裏側には残っていた。 生前おやじがめずらしく語ってくれた。 「川沿いの山の斜面にある樹木を切り倒し、川へ流して河口まで運んだんだろう。」 木下藤吉郎の墨俣城を築城した当時の再現であったのかと思った。 寒冷地の樹木は、年輪の幅が狭く良質な木材であった。 

 義伯父のUさんは、製材業を営み樺太で財をなした。 本斗町近くの製材所に、伯父が工場長を務めた大きな製材所があった。 蛇行する川には、確かに無数の木材が浮かんでいた。 遠い昔物語にすぎないが、樺太開拓は森林伐採から始まったのかもしれない。 

2009年1月19日 (月)

水仙が咲いた

Photo  いつものように、買い物を兼ねた散歩に出かけた。 この寒空に、水仙の花が咲いていた。 「いつでも摘んでいいですよ!」 地主のおばあちゃんが、近所の奥さんに言っていたという。 そのおばあちゃんが、昨年の火災で、豪邸もろとも亡くなられてしまった。 水仙にその面影を偲び黙祷した。

Photo_2  ナンテンの真っ赤な実が目にしみた。 生協近くの大きなナンテンの木にムクドリが群がっていた。 上の枝から下に向かって、きれいに食べつくされている。 カメラを向けたら警戒し、パッと散って電線に止まっている。 野鳥にとって今が一番、餌どりが大変なようだ。 マーチャンの畑のブロッコリイやキャベツの葉も大好きで、よくやってくる。

Photo_3Photo_5  金柑と柚子の生り物には魅力がある。 キンカンはご近所のMさん宅にあり、ユズは我が家のものである。 「柚子の大馬鹿13年」といわれるが、いつ移植したかさだかでない。 この木に実がついて数年となる。 ミカンがほしいが、今からでは遅すぎる。

2009年1月18日 (日)

海の見えるコース

PhotoPhoto_3Photo_4  サイクリングロードは海岸線に近づいてきた。 最近できたのだろうか、草原の海沿いに小高い見晴らし台ができていた。 

 頂上に達すると、鳥取砂丘を彷彿させるような景色が開けた。 日本初の商業用原子力発電所があった、東海発電所が見える。  大量の黒鉛を使った英国型原子炉は、採算が合わず解体されるという。

 その隣には、東海港が建設中だった。 先に訪れた時は、工事のダンプカーが引っ切り無しに走っていたが、この日は静まり返っている。

Photo_5 下に降りてみた。 大型のクレーンがあった。 大型の船も寄港していた。

Photo_6  穏やかな冬の海原が開けていた。 夏に見た灰色の海とは別世界だ。 海原を見つめていると、心が洗われるようになる。 マーチャンも海に生息していた生物の末裔なのだろう。

 

2009年1月17日 (土)

卵の森

PhotoPhoto_3  ひたち海浜公園サイクロードの卵の森にやってきた。 さすがにマーチャンも、子どもたちに交じって遊具を楽しむ気にはならなかった。 家に帰って 「大観覧車に乗って、写真を撮りまくりたかったんだが!」 と話しかけたら 「おじいさんが一人で観覧車に乗っている人がいるわけないでしょう!」 と一蹴にされてしまった。

Photo_4Photo_5  その先に進むと、両側に上水道のような池と噴水があった。 

 昨日の思い出の続きになる。 樺太の開発に力を注いでいた戦時中、内幌町にはまだ水道が引かれていなかった。 町内の住民が共同で使っていた井戸があった。 屋根つきの大きなつるべ井戸だった。 ガランガラン~ドーンとかなり深い井戸であった。

 冬になるとこぼれた水が凍りついて、コンクリートの井戸枠が、日に日に膨らんでいった。 「一人で井戸に近づいてはいけませんよ!」 とおふくろに厳しく言われていた。 真冬の晴れ間に、二つの水桶と天秤棒をもったおふくろについて水道小屋へ行った。 小屋の周りは氷が張り詰め、井戸の底から湯けむりが立っていた。

 おふくろたちの水汲みの苦労が、今になって思いやられる。 貴重な水は、ストーブの煙突に付けられた湯沸かしで温められ、家事や洗濯に使われた。 夕方遊び疲れて帰ってきたマーチャンに、「このお湯で手を温めなさい!」といって出されたぬるま湯もこの水だった。

2009年1月16日 (金)

寒波

Photo  寒波が日本列島を襲っている。 今朝は、マイナス3℃と冷え込んだ。

 温暖化がまだ問題になっていない頃は、室内の水道管が凍りついていた。 明日から寒さが緩むという。 庭の花壇の土が霜柱で盛り上がっている。 土の中の水分が、毛管現象で吸いあがり細い氷の柱をつくっている。

 小学生のころの樺太の生活を振り返ってみる。 南西海岸で、比較的温暖な土地だと思われるが、猛吹雪の後の冷え込みはすごかった。 流し台のある二重窓のガラスには室内の水蒸気が氷となって張り付いていた。 この盛り上がった氷は、朝日を受けてカラフルな模様をみせていた。 額に飾られた名画のようだった。

 椎内川が凍って雪が積もり、子どもたちの遊び場となっていた。 樹木のような氷柱が軒下を覆っていた。 春を迎え雪解け水が軒先を勢いよく流れていたが、朝になると流れの波紋を残して凍りついていた。

 吹雪の日は、校庭近くに白い旗が立って学校がお休みとなる。 幌を被った馬そりがリンリンと音を立てて、大通り走っていた。

 引き揚げてきた内地には、アカマツ林が沢山あった。 写真とは違って、下草があって自然そのままであった。 登校途中、仲間と焚き火をして石を温め布でくるんで暖をとったていた。

2009年1月15日 (木)

サイクリング

Photo  3時間310円の自転車に乗って、園内の散策を始めた。 風が弱く日差しがあって、思ったより寒さが和らいでいた。 園内に専用のサイクリングロードが整備されていた。

 数年前、I先輩から 『筑波山までサイクリングしないか?』 とお誘いを受けた。 旧筑波線の跡地がサイクリングロードになり、現在は岩瀬までつながっているようだ。 自転車を用意してまでの好意に、マーチャンは即座にお断りしてしまった。

 海浜公園のロードでも、上り坂に来ると自転車から降りて手押ししていた。 そのわきを若いお父さんが、子どもを後ろに乗せて勢いよく抜かしていく。 やっぱり筑波サイクリングロードは、マーチャンには無理だ。

 中学2年生の時のサイクリングを、再度思い出した。 数か月前にやっと覚えた、自転車に乗って学校から筑波山を目指した。 叔母にもらった中古自転車は、サドルが高くて足がやっとペダルにつける状況だった。 片道数十キロはあっただろう、起伏の激しい砂利道を必死になって後について行った。 筑波山のふもとに自転車を置いて、山頂を目指した。

 その時の服装は、足にはゲートル・頭には軍隊帽の復員スタイルであった。 途中で撮った白黒写真が語ってくれる。 おまけにサツマイモ弁当と水筒・森永キャラメルだけだった。 マーチャンにも、筑波山サイクリングができた少年時代があったのだ。

2009年1月14日 (水)

国営ひたち海浜公園

Photo  国営ひたち海浜公園は、第二次大戦中の日本軍の飛行場、戦後のアメリカ軍による水戸射爆撃場であった。 30年前から、350haある跡地の40%近くを公園に造り変えてきた。

 平和のシンボルのような大観覧車などが、賑やかに並んでいた。 寒中にもかかわらず、親子ずれや若いカップルでにぎわっていた。 マーチャンは過去数回この地を訪ねてきた。 現在は、高速道路が開通して便利になってきた。

 娘が学生の頃、二人で来た時のことが思い出された。 大洗のマリンタワーを見た後、冷たい雨の降る公園をあてどもなくさまよった。 アクシデントを伴った旅は、印象に残るものだ。 あのときは、幼子を連れた若い夫婦と一緒に周回する乗り物に乗った。 自分たちよりこの親子が寒さに震えていて気の毒に思えた。

 久しぶりに帰省した娘との寒さを伴った思い出だった。 きょうは、友人との再会を心待ちにしての一時となった。 自転車に乗って、園内のサイクルロードをまわり始めた。 

2009年1月13日 (火)

再会

PhotoPhoto_2  成人の日、マーチャンはひたちなか海浜公園へ向かった。 ひたちなか市に住む友人に会うためである。

 学生時代のT君との50年ぶりの再会であった。 『 おれのこの顔分かるかい?』 T君が開口一番いった言葉は、マーチャンの思いと一緒だった。 ユネスコクラブの部長だった当時のT君は、色白でふっくらしていた。 彼のもとで、大子町で中学生相手のユネスコ学校を開いた思い出を語った。

 あれから50年、二人の人生は波乱万丈であったことを振り返った。 年賀状だけの交信ではあったが、互いに思う心は同じだったことに感謝した。 T君から土浦一高の同窓生の名前がたくさん出てきた。 マーチャンより当時の友人と、ゴルフや旅行などで付き合っていることを知った。 疎遠だったマーチャンにとってはうらやましく思えた。

 『牛久のアトリエで、I君の彫塑展示会があるから一緒に行こう!』 とさそわれた。 I君とは2回ほど同窓の仲間と一緒に酒席を共にしたことがある。 T君を通して旧交を深めたいと願う。

 帰り道、同じ町内に住むS先生にお会いした。 マーチャンの最後の職場の教頭さんだったS先生は、10数年たった今も親しげだった。 突然の訪問だったので、再会を約して近くの駐車場でお別れした。 それにしてもS先生の、3年間遠い土浦の学校に通勤されていたご苦労が偲ばれた。

2009年1月12日 (月)

源氏物語2

PhotoPhoto_2  マーチャンにとって、初めての源氏物語である。 紫式部の操る~むらさきのゆかり~物語に圧倒される。

 桐壷帝に寵愛された桐壷更衣は、幼い皇子を残して死ぬ。 やがて母親の面影に似た父の妃藤壷の女御が入内する。 5歳年下の皇子は義母を慕い、やがて恋心へと発展していく。  天性の美貌に学問、音楽の才を発揮する皇子を、父帝は皇太子にと願うものの、後身のないことを考慮して臣籍を降し、源氏姓を与えた。 光源氏の誕生である。

 桐壷帝の正室、弘徽殿女御は右大臣の娘である。 桐壷更衣を妬み意地悪をするのである。 藤壷は、先帝の血筋を引く高貴な身分であった。 昔も今も同じような、嫁舅とのいざこざや身分財産の違いによる格差社会が、この物語に現われてくる。

 作者 紫式部は平安中期の作家・歌人である。 百人一首『 めぐりあいて 見しやそれともわかぬまに 雲がくれにし夜半の月かな 』 の作者でもある。 聴講している人の中には、本を傍らに置いている人がいる。 マーチャンの信頼していたMさんは、高校の国語の先生だった。 『M先生に源氏物語を語らせたら最高だぞ!』 公民館にいたとき先輩に言われた。 真面目な顔をして、笑いを誘ってくれた その先生は今はいない。

2009年1月11日 (日)

源氏物語

PhotoPhoto_2Photo_3  文学とはほど遠いマーチャンが、生涯学習センターの 『千年紀に読む源氏物語』 の講座を受けている。

 スーパースター光源氏のお邸(二条の院)は、「生ける仏の御国」といわれる。 写真の、楽法寺や御苑の美しさも及ばないことであろう。

 平安時代の頃の第一文学は、漢詩であり漢文であったという。 そして第二芸術として和歌が存在していた。 当時にも、物語は数多くあったといわれるが、その存在は文学の外に置かれていたようだ。 源氏物語が、あまりにも長編であったので保存されてきたのではないかと推測されるほどである。

 昨日は、「光源氏・藤壺 宿命の契り」(若紫巻)のお話であった。 戦前、有名な作家が源氏物語を連載したとき、源氏物語の中核をなすこの巻きは割愛したという。 割愛せざるを得なかった時代であった。

 これまでは、講師が時々挿入する洒落に笑いが起こっていた。 今日ばかりは、その洒落言葉にも反応せず物語に引き寄せられていた。

 『見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちに やがてまぎるるわが身ともがな』 『世語りに人や伝へむたぐひなく 憂き身をさめぬ夢になしても』 クライマックスに登場する、光源氏と藤壷の歌である。

2009年1月10日 (土)

CO・OP

Photo  備前川の湿地だった線路側に、CO・OPが建ってまだ日が浅い。 マーチャンは、散歩を兼ねてリックを背負い買い物に付き合ってやってくる。 木曽坂を下って、数キロの散歩道であるが、最近は苦もなく往復できるようになった。

Photo_2Photo_3Photo_4  マーチャンが関心を寄せる陳列棚である。 アイスクリームは、バニラとチョコレートを交互に選んでいつでも食べられるようになった。

 お喋りマーチャンの過去物語である。 中学生の時、水戸の伯父の家に夏休み長逗留していた。 市電が曲がりくねって走っていた泉町の松竹映画館で、高峰秀子さん出演の映画を見せてもらった。 帰り道 裸電球に照らされた店先には、竹の串が突き刺さったキャンデーがあった。 砂糖が貴重品だったこの頃は、ズルチン・サッカリンなどの甘味料が使われていた。 容器に入ったアイスクリームもあった。 店内のテーブルに輪をつくって、容器に盛られた冷菓をいとこたちと一緒にご馳走になった。

 田舎道にも、鐘を鳴らしながら自転車に積んだアイスクリームを売りにきた。 コーンの容器にワンカップのアイスクリームが盛られた。 あの独特の味が今でも忘れることがない。

2009年1月 9日 (金)

雨引山

Photo  嵯峨天皇の降雨祈願があった後、願いがかなって雨が降った。 そして、天彦山を雨引山と改称した。 約1200年前のことである。

 おやじの供養のため、きょうだい四人で奈良の長谷寺を訪ねた折、雨引山の御住職が菅長を務められたことを知った。 「お父さん、おじいちゃんの法事のとき聞いたお経と同じだね。」 祈願を受けた娘が問いかけてきた。 真言宗豊山派のお寺だから、おやじも孫の安産を祈願してくれたことを改めて知った。 祈願とブログ取材を兼ねて訪れた、罰当たりなマーチャンだが、家族のえにしに引かれてやって来たことになる。

Photo_2Photo_3Photo_4Photo_5  薬医門・仁王門・観音堂・多宝塔の歴史ある建造物を参観した。

Photo_6Photo_7Photo_8 巨木・孔雀・本堂四面の彫塑などと触れ合うこともできた。

2009年1月 8日 (木)

筑波嶺

Photo134  雨引山楽法寺の多宝塔と鐘楼堂の背景に、筑波山が望まれた。 千年以上の昔、陽成院が綏子内親王にあてた歌 『筑波嶺の峰より落ちるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる』 を思い出した。 京の都から、遥か東方にある紫蜂筑波山はこの時代から、世に知れ渡っていたことになる。

 それにしても、何と激しい恋歌ではないか。 マーチャンが学生の頃の正月、ユネスコクラブ顧問のN教授の官舎で ご夫妻の接待を受け、カルタとりを楽しんだ。 着物姿の女子学生を交えて心が弾んでいた。  何気なく聞いた百人一首の歌であったが、懐かしい思い出のひとこまであった。

 唐様重層の宝形である多宝塔は、その造形の清麗さは関東随一といわれる。  

 鐘楼堂の音は、詩人横瀬夜雨をして 『山のうえなる寺なれば 猿(ましら)や鐘にたわむるる』 と詠わしめたという。 午後3時、間隔を置いて自動打ちの鐘の音が三度鳴り響いていた。 いずれも江戸時代の建造物である。

2009年1月 7日 (水)

登り窯

 益子の通りの可愛い感じのお店に入った。 お店の奥で、若い主人が革製品を編んでいた。 そのわきで、乳飲み子を抱いた女性が暖をとっていた。 ほのぼのとしたお店には、革製品の小物と陶器がバランスよく並べられていた。

PhotoPhoto_2 車を止めた空き地の、すぐ隣の喫茶店に入った。  ドアのハンドルのねじ回しに目がとまった。 手作りの陶器の食器に、おいしいお料理が盛られていた。 「よければ、益子で一番古い登り窯をご覧になってください」感じのいいおかみさんが声をかけてくれた。Photo_3033Photo_4

 朽ち果てた登り窯が、すぐ裏手に横たわっていた。 大量の陶磁器を焼いていた往時が偲ばれる。

 登り窯は、二昼夜 約60時間焼くという。 1日かけて、約1、300℃に温度をあげて保っていく。 職人独特の勘によって行われるという。 

 マーチャンをのぞく家族の作品は、やがてウララ2の電気釜で焼かれることになる。

2009年1月 6日 (火)

北関東自動車道

Photo  常磐自動車道の友部JCTから、北関東自動車道へ入った。 笠間までだったこの高速道路も、真岡までつながって栃木県が近くなった。 カーナビが山岳地帯をさ迷っているうちに、桜川筑西ICに着いた。

 もとの岩瀬町である。 従来だと、筑波山をまわり真壁を通ってやってきた時間のかかる町だった。

Photo_2005Photo_3  益子に向かって車を走らせると、雪をかぶった男体山などの日光連山が現れた。 益子参考館・浜田庄司館は残念ながら、まだ正月休館だった。

 わが家では、子どもたち3人が帰省して陶器づくりにチャレンジしていた。 最近陶芸にはまっている家内が、満足そうに参加していた。 作品が4個大切そうに並べられた。 絵付け・釜入れはカーチャン頼みである。 そんなお騒がせな遊び仲間の子どもたちも帰って、月曜日からはいつもの静寂な生活に戻った。

2009年1月 5日 (月)

祈願

Photo  本尊 延命観世音菩薩を祀る、雨引山楽法寺へお参りした。 娘夫婦を伴って、子授かり祈願のためである。

Photo_2Photo_3Photo_4Photo_5  観音堂の回廊を渡って、本堂に入り神妙に正座した。 護摩が焚かれ、大鐘と大太鼓が鳴り響いた。

 娘を授かったとき、マーチャンの両親がこの場に存在していたことを想像した。 法要の終末に様々な祈願が述べられた。 言うまでもなく「子授かり」の場面で、合掌した。

 娘たちが成人したとき、お礼参りをした。 今年の祈願成就の暁には、再びこの地を訪れ喜びを分かち合いたい。

2009年1月 4日 (日)

丑年

PhotoPhoto_2Photo_3  十二支の二番目にあたる丑年を迎えた。 神様の元に、大晦日の晩から馳せ参じた牛が一番乗りしたのだが、背中に隠れていた鼠に飛び出されて先を越されたという。 それ以来、牛には「お人好し・鈍重」などのイメージがもたれた。 子年生まれのマーチャンが、牛さんに好意をもつわけである。

 教え子たちから、可愛い子どもの写真入りの賀状がたくさん届いた。 最後の職場で出会ったNさんからの、うれしい便りも入っていた。 当時、担当の管理主事から「本庁では手放したくないだけど」と折り紙つきのNさんが、本校の事務を担当してくれた。

 高校時代テニスプレイヤーとして活躍してたNさんは、容姿端麗で誰からも慕われていた。 事務職ばかりでなく、来客の接待から環境美化まで気配りをしてくれた。 マーチャンの退職と同時に、Nさんは女性自衛官の道を歩むこととなった。 ご苦労もあったであろうが、立派に務めを果たしている。 その上、素敵な旦那さんと可愛い娘さんに恵まれて幸せそのものである。

 昨年から、ご主人が北海道の自衛隊の大隊長に栄進して、300人からの信頼する隊員と共に北の守りに励んでいるとのことであった。 「Nさん内助の功みごと!」マーチャンは感動の心をこめた返信を送った。

2009年1月 3日 (土)

マーチャン農園

PhotoPhoto_2Photo_3  マーチャン農園自慢の野菜たちが順調に育った。 10月末に種を蒔いたり、苗を定植して、12月の中頃にこれまでになった。  この後も、寒さに負けず成長を続けている

Photo_4Photo_5Photo_6  キャベツは春先に結球するため、懸命に葉を広げている。 緑肥として初めて試みたニューーオーツも背丈を伸ばしてきた。 牧畜用のえん麦のたぐいだと思う。

 種用のサトイモを、地中に保存した。 藁をかぶせて空気を送ってやる。 落ち葉が舞い降りてきた。 昔から続けられてきた、自然の贈り物だ。 有機肥料の腐葉土は畑に活力をもたらしてくれる。

Photo_11 Photo_7Photo_8Photo_9 コナラもすっかり葉を落とし冬ごもりだ。 常磐線に上り電車がやってきた。

 桐の大木も健在だ。

2009年1月 2日 (金)

神社

PhotoPhoto_2Photo_3  お正月と神社詣では日本文化の一つである。 今朝は、昨年6月に新装なった鹿島神社に初詣した。

 この地の近くに住まって、30年近くになるが、この神社は荒れ果てていた。 隣の町内の氏子の皆さんが、浄財をもって改装された。

Photo_4Photo_5  この神社は、祭神 武甕槌命を祀った鹿島神社の分社である。 古来より村の鎮守 明神さまとして祀っていた。

 戦前は、この神前で武運長久を祈願して、村の若者が戦地へ出征して行ったという。 その頃、マーチャンは樺太の内幌町にいた。 町はずれの小高い山の中腹に内幌神社があった。 その境内で、神妙にお参りした記憶がある。 当時は国家神道の時代であった。

Photo_6Photo_7  神社前の散歩道から、栄枯変わらぬ姿の筑波山と雪入山が見える。

 土浦の市役所や街の景観は、今様に衣替えしてしまった。

2009年1月 1日 (木)

初日の出

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 2009年 元日 霞ヶ浦総合公園にて初日の出を迎える。 

 今年は丑年、のんびりと力強く人生を楽しみたい。

Photo_4 帰り道、筑波山とウララのすっきりした姿が目にとまる。 山紫水明のわが町土浦に、幸あれと祈念する。

Photo_5  マーチャンの家にも、新年の飾りが整った。

 

Photo_6  『ゆとりと充実!』 マーチャン農園の発展を期して、子どもたちにも賀状を書く。

 今年も素直に付き合ってくれ!

 

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