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2009年2月

2009年2月27日 (金)

熱帯雨林を走る列車

458_2  キュランダに向かう高原列車『キュランダシーニックレールウェイ』がホームに入ってきた。 昔、鈴の鉱山発掘のためひかれた鉄道が観光のためよみがえった。

Photo 添乗員ガイドの『マッちゃん』が、終日付き添ってくれた。 大きな声を出して、身振り細やかにお世話になった。

『京都出身です。ガイド歴5年おなじみも沢山できました!』 家族全員魅力に取りつかれてしまった。

Photo_2Photo_3Photo_4『先頭車両をまず撮って、次は左に窓から滝を撮る。 最後は戻って後続車両を撮るんですよ!』 マッちゃんが車内を駆け回って叫んでいる。 車窓から眺める列車の風景は定評がある代物だ。

Photo_5Photo_6 終点のキュランダの直前に、列車が止まった。 ホームから雄大なバロン滝が現れた。 夢中でシャッターを押しまくった。 展望台に上がって最後の一枚を撮ったとき、汽笛が長く鳴り響いた。 後ろ髪ひかれる思いで列車に戻った。

2009年2月26日 (木)

レストラン

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Photo_4Photo_5Photo_6  夕食は外に出てとることとなった。

 レストラン『ダンデーズ』で、カンガルーの肉を一切れ注文した。 牛肉より硬くて奇異な食感であった。 時々、日本女性のウエイターが接待してくれて安心した。

Photo_7 中華料理店で、カニ料理を御馳走になった。 とても美味しかった。 中国系のオーストラリア人が多く見られた。 このお店には、オーストラリア人の家族が沢山来店していた。 移民の多い国際的なお国柄が偲ばれた。

164  大橋巨泉さんのお店もあった。 カナダでもお店に寄ったことがあるが、日本と3か国に住まいをもって過ごしている巨泉さんがうらやましく思えた。 ケアンズは最も日本に近い観光地なのだと実感した。

2009年2月25日 (水)

グリーン島の海

Photo_21  グリーン島は、約6000年前にサンゴが堆積してできた島(コーラルケイ)で、唯一島内に熱帯性の植物が生えている。 126種類もの動植物が12ヘクタールの小さな島をマイホームとしている。

Photo_3  見渡す限りグリーンな海原が続く彼方を見つめた。 日本列島がすっぽり入るといわれる、グレート・バリア・リーフの一こまである。 300ヵ所の独立した珊瑚礁と大小900あまりの島々からなるグレート・バラ・リーフは、1981年にユネスコの世界遺産に登録された。

Photo_4Photo_5Photo_6  白い砂浜とグリーンな海水の別世界に見とれてしまった。 ビーチバレー・スノーケルを片手にした美人・微笑ましい親子のスイマー・・・・ この中にマーチャンの娘二人が混じって水遊びをしていた。

 何ですって? 「あれでも泳ぎなの!」

2009年2月24日 (火)

グラスボートで海中散歩

0PhotoPhoto_2  高速カタマラン艇から、グラスボートへ乗り換えた。 張り切りガールの操縦士の甲高い歓迎と説明があった。 全く内容が通じない。 的が外れた頃に、日本語と韓国語のテープが流れた。

Photo_3Photo_4Photo_5  グリーン島の周辺をあちらこちら移動して、サンゴ・海藻・魚・貝類・ナマコなどを見せてくれた。 シャッターチャンスを逃して同じようなものしか撮れなかった。

Photo_7Photo_8Photo_9 元気な案内嬢が、掛け声とともに左右に餌をばら撒いた。 その餌を求めて魚たちが群がってきた。 房総の鯛の浦で見た光景と似ていた。

 スノーケルをつけて、海中遊泳をしている日本人観光客がいた。 うらやましく思えたが、マーチャンには無理かも?

2009年2月23日 (月)

グリーン島へ

PhotoPhoto_2  ケアンズ港とグリーン島を結ぶ、オーストラリア製の高速カタマラン艇「グレート アドベンチャーズ号」が入ってきた。

 ケアンズの東27kmのグレートバリアリーフに浮かぶグリーン島へ片道約50分の航海である。

Photo_3Photo_4  ケアンズ港があっという間に遠ざかって行った。

Photo_5 船内を巡ってみた。 デッキは真夏の太陽が照りつけ、生暖かい海風が吹き付けていた。 船内は、冷房がきつく寒暖の差が大きい。 信頼感のある船長がグリーン島を目指していた。

Photo_6Photo_7Photo_8Photo_9  グリーン島に近づくと、海面の様子が一変した。 見渡す限りグリーンの海が静かに横たわっていた。

 

2009年2月22日 (日)

熱気球で大空へ

Photo_9Photo_10  ケアンズ郊外の牧草地に未明にやってきた。 LPG使用のバーナーで、球皮(エンべローブ)の空気が暖められ気球が大空に舞った。 操縦士がバーナーと何本かの紐を操作している。 カメラと望遠鏡以外持ち込み禁止の乗客20名が興奮している。

 バーナーの炎が身体に伝わってくる。 赤道に近いこの辺りでは、朝の大気の温度が低い時にしか飛べないという。

Photo_11Photo_12Photo_13  他の気球も上がった。 サトウキビ畑に囲まれた民家が見える。 高圧線の塔が真下にあった。 地平線の彼方に山並が連なっている。 雄大な景色である。

Photo_14Photo_15Photo_16  視界を閉ざされた雲を抜けて、雲上に達した。 まさに別世界であった。 予定の30分をはるかに超えて、ランデングに移った。 牧場の馬や牛が可愛らしい。

 日本人の女性は、あらゆる職場で活躍しているが、この方がやさしく迎えてくれた。 雨でぬかるんだ牧草地をトレーラーに乗って脱出した。002

2009年2月21日 (土)

熱帯植物園

Photo_3Photo_4  ケアンズ郊外にある無料の熱帯植物園『ボタニックガーデン』へやってきた。 赤道に近いこの地方の夏は、雨期に入っていた。 

 10mもありそうな巨木が熱帯林を覆っていた。 数億年もの間、これらの原生林は引き継がれてきたようだ。 雨上がりのためか蒸し暑く、その上藪蚊がしつこく付きまとってくる。 かなり献血してしまった。

Photo_5Photo_6  バナナの大きな節があったが、あまり美味しそうには見えない。 食虫植物らしき不気味な植物が温室にぶら下がっていた。 ウッボカズラらしいが、虫を捕らえ、消化吸収するあたり動物と同じだ。

Photo_7159Photo_8 恐竜がはびこっていた中生代にも、これらの植物が繁茂していたということであろうか。

 成田空港からやってきた、小型の恐竜が2匹この辺りを跳ねまわっていた。 なんだ見慣れた娘か!

2009年2月20日 (金)

アリ塚

PhotoPhoto_2  トロピカルズー動物園のすぐ近くで、アリ塚を発見した。キャランダの高原列車の車窓からも、茶色で、1メートル以上もあるアリ塚が見られた。  

 アリ塚は、ターマイト(天狗白アリ)たちが何十年もかけて作り上げたお城で、とても堅い造りになっている。 1年で1センチ大きくなる、アリ塚内部は年間を通してほぼ22度に保たれているという。 原住民のアボリジニ人は、このアリ塚のエキスを下痢止めに飲んでいたそうだ。 

Photo_3Photo_4Photo_5  マイクロバスは、バロン渓谷国立公園の入口へ運んでくれた。 世界遺産になっている一帯であるが、数日前の大雨でバロン川は増水していた。 

 ここの休憩所で、アイスクリームを注文した。 茶目っ気のある金髪の女性が、ニッコリ顔で、「どうぞ!」といって大盛アイスを渡してくれた。

2009年2月19日 (木)

オーストラリア大陸の有袋類

Photo_4Photo_5Photo_6Photo_7  動物園には、鳥たちも沢山見られた。 ケアンズの街角の至る所でも、野鳥が飛び回っていて、鳴き声をあげていた。

Photo_8  ホテル近くの大きな街路樹には、恋の季節なのだろうかコウモリの大群が群がっていた。 大きな鳴き声をあげて、異常な感じがした。 夕方暗くなると空を飛び交っていて、なんとも自然がいっぱいな町である。

Photo_9Photo_10Photo_11Photo_12Photo_13 再び動物園の動物たちが登場した。

 オーストラリア大陸とタスマニア・ニューギニア島のみに残って生息している、有袋類について説明があった。  

 カンガルーは、後肢が発達しており、太い尾でバランスをとりながら時速70㎞のスピードで飛躍しながら、1日100キロも走ることができるという。

 コアラは、ユーカリの葉や芽を主食としている。 ユーカリの葉は消化が悪く、毒素が含まれている。 コアラの盲腸は、2mもあり、その中で発酵させユーカリの毒素を分解して消化吸収している。 また、ユーカリの葉は栄養に乏しく、活発に行動するエネルギーを得られないので、一日約20時間眠って過ごす。 オーストラリアには外敵が少ないので、巣も造らずに木の上でのんびり生息できるとのことであった。

2009年2月18日 (水)

愛しのチェリー

Photo  ケアンズ郊外の動物園「ケアンズ・トロピカルズー」へやってきた。 オーストラリアならではの動物たちとの対面に胸ときめかせる。

Photo_2  カンガルーに餌を与えている可愛らしい活発なお嬢さん。 カメラを向けるとプリプリ怒って、両親の方へ行ってしまった。 しばらくして、隙を見計らってシャターを切った。

Photo_3Photo_4Photo_5Photo_6  レッサーパンダ・ワニ・ウォンバット・コアラたちはお昼寝の最中。 どちらかというと夜行性の動物たちのお昼寝の時間らしい。

Photo_8  愛しのチェリーちゃんとの一時の逢瀬である。 年寄りおじさんは結構ですといわんばかり。 眠いさなかチェリーちゃんは何回もお愛想を振りまいていた。 15オーストラリアドル(約1000円)で記念写真付き、マイカメラは別口でも撮り放題 日本の観光地よりサービス満点。

 何ですか? 「マーチャンが邪魔だ!」

2009年2月17日 (火)

パームコープビーチ散策

PhotoPhoto_2  ケアンズ観光のスタートは、パームコープビーチ散策であった。 砂浜が奇麗であることがナンバー1という折り紙つきの海岸である。

 海には二つの島が浮いていた。 左はダブル・アイランド、右はボーイスカウトの帽子のような形をしたスカウト・ハット・アイスランドである。

Photo_3Photo_4Photo_5  この海岸線には、高級別荘が立ち並んでいていたが、ガイドの片言語の説明によると高額で有名人が宿っているとのことであった。

 日本時間より1時間早いケアンズに、4時半についた。 ジェットスター航空機の乗務員は、日本人・韓国人・オーストラリア人などで、男女半々が夜間勤務にあたっていた。 今回はフリープランのスケジュールをJTB現地事務所でたてることになった。 睡眠不足であったが、9時半まで港などを散策して過ごした。 言葉に苦労してやっと喫茶ができた。

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2009年2月16日 (月)

ケアンズ観光

PhotoPhoto_2Photo_3  オーストラリアのケアンズ港は、真夏の太陽が降りそそいでいた。 成田とケアンズを結ぶジェットスター航空機で、約8時間でやってきた。

 小さなケアンズ町のホテルを結ぶJTBの定期バスが走っているほど、新婚カップルなどの日本人客が多い観光地であった。 マーチャンは相変わらず、家族との楽しみを二の次にブログの写真撮りに熱中していた。

 ケアンズの町は観光とサトウキビ栽培が主力だという。 道路の交差点の中心には樹木の植えられた円形となっていて、日本と同じく左車線を日本製の自動車が走り回っていた。

Photo_4Photo_5  国際性豊かなオーストラリアのケアンズで、典型的な日本人?のマーチャンが経験してきたことを、しばらくの間ブログで感想を述べてみたい。

2009年2月11日 (水)

夢を運ぶジオラマ

Photo_4Photo_5Photo_6Photo_7  日本の鉄道の特徴的なシーンを再現した『模型鉄道ジオラマ』に夢を馳せた。

 ただ漠然とした思い出ではあるが、箱根の山々・東海道線の旅が蘇ってくる。 駅舎・発電所・橋梁・トンネルなど様々な鉄道施設と多彩な車両を一望できる景色が広がっていた。

 横幅約25m奥行き約8m、約200㎡の地形模型に在来線・新幹線が走っていた。 軌道総延長約1,400mに最大20編成で600両が走行できる日本最大のジオラマである。

 マーチャンが在職中、鉄道ファンだった中学生のK君を担任した。 彼は、時刻表をめくって全国を旅していた。 「きょうはどちらを旅するの?」・・・・ 彼の影響を受けて、マーチャンも家族旅行の時は、絵地図を挿入して日程表を詳しく書きはじめた。 

 マーチャン農園のブログをご覧いただき感謝しております。 今日から15日まで、ケアンズへ行ってきますので、ブログを休みます。

2009年2月10日 (火)

特急列車2

Photo  JR東日本が上野~青森駅間を、EF81形電気機関車の牽引で走る寝台特急列車 『あけぼの』 である。 この列車は、東北本線経由のダイアで走っていた。 数年前、姉が札幌で開かれる同窓会に行くというので、寝台特急 『北斗星』 を紹介した。 夕刻上野を発って、翌日札幌について友人と再会した。 それにしても長距離の一人旅には、時間を持て余してしまったという。

Photo_3 東北新幹線開業前に上野~仙台間で運転された、特急 『ひばり』 である。 話はそれるが、戦後麦畑のあたりで空高く飛び上って「ピーチク ピーチク」と騒がしく鳴いていたひばりたちは姿を消してしまった。 ひばりは、麦畑に巣をつくっていたようだが、着地点からかなり離れたところにあった。

Photo_4  東京駅と新潟駅を結ぶJR東日本、上越新幹線が昭和57年(1982)に開業した。 この 『とき』 は開業当時の機関車なのだろうか。 佐渡へ行ったときの 『とき』 は2時間かからないで、新潟駅に着いていた。

 新幹線の機関車も年々スピードを増し、それに伴ってスタイルも変わってきた。 

2009年2月 9日 (月)

懐かしい急行列車

Photo  再び、鉄道博物館の写真を開いた。 1階ヒストリーゾーン中央の、ターンテーブルに置かれた蒸気機関車C57 135である。 

 機関車の方向転換を行うターンテーブルを樺太の本斗町駅で見たことがある。 本斗駅から北の真岡へ向かう蒸気機関車は、かなり大きな蒸気機関車であった。 本斗駅から引っ越しした内幌町へは、チッポケな蒸気機関車がマッチ箱のような客車と屋根なしの貨車を牽引していた。 上内幌炭鉱の石炭を運ぶ目的で引かれた鉄道だった。 時々大きな蒸気機関車に引かれて石炭を積んだ貨物列車が、椎内川の鉄橋を渡ってきた。

Photo_2Photo_3  昭和31年(1956) 東京~博多間で運転を開始した「特急あさかぜ」は、マーチャンが就職した昭和33年には「ブルートレイン」 「動くホテル」といわれた寝台車を牽引して走るようになった。

 昭和40年頃、マーチャンは職員旅行で伊勢志摩へ旅したことがあった。 生まれて初めて、夜行寝台車に乗った。 二段ベッドの天井にもぐりこんだが、騒音がひどく熟睡できなかった記憶がある。 真珠島での海女さんの実演・那智の滝などの思い出がかすかに残っている。

2009年2月 8日 (日)

ヨットハーバー土浦

PhotoPhoto_2  土浦港の先端に、大きなヨットハーバーができていた。 湘南海岸や琵琶湖湖畔に来た思いだ。 30年以上前、マーチャンは、この先の神林から釣り船に乗ってやってきた場所でもある。 葦の茂る沖合に、釣り船を竹棒で固定して寒ブナ釣りを楽しんでいた。

 この時季は、筑波おろしの強風が吹き荒れて苦労した覚えがある。 京成ホテルが撤退して、この周辺の開発が始まったようだ。 霞ヶ浦の大自然を生かしたレジャーランドの再現を期待したい。

Photo_4Photo_5Photo_6  昔は土浦~潮来との間で定期航路が開けて賑わっていた。 当時、大型客船が発着した岸壁である。

 スマートな帆船が停泊していた。 その先の空に下弦の月が寂しげにかかっていた。 栄枯衰勢は世の常であるが、いつの日にか土浦港の隆盛を期待してやまない。

2009年2月 7日 (土)

土浦港の今

Photo  霞ヶ浦周辺の観光地が、一目で分かる看板があった。 昔は、土浦~潮来間に定期航路が開かれていた。 この看板には、霞ケ浦総合公園・阿見の予科練記念館・玉造の水の科学館・歩崎の景勝地などが記されていた。 マーチャンは、ブログを始めてからほとんどの場所を写真に収めてきた。

Photo_2Photo_3  土浦駅東口からやってきた、土浦港への入り口付近はレジャー用のヨットだまりになっていた。

Photo_4  集魚灯をつけた小型の漁船が停泊していた。 イカ釣り漁船と同じような漁を、霞ヶ浦でも行われているようだ。

Photo_6  観光遊覧船ジェットホイールが営業している。 土浦港の岸壁は、沖合まで完全に舗装され、マイカーが自由に駐車していた。 釣り客も平日にもかかわらず見られた。 

2009年2月 6日 (金)

霞ヶ浦のオオバン

PhotoPhoto_2  くちばしの先が白いオオバンが目にとまった。 中央アジアなどで繁殖したものが、越冬のため暖地へ渡ってくるのだと教えられたことがある。 ハクチョウやコガモたちと仲良く餌をあさっていた。

 オオバンは、弁足をうまく使って上手に泳ぎ、昆虫・甲殻類・植物の種などいろいろなものを食べる。

Photo_3  サギの中では、最大種のアオサギが餌を狙っていた。 足・首・くちばしが長く、飛ぶ姿は雄大である。 「アオサギ」のアオは古語で灰色のことをさし、英語で Grey Heron(灰色のサギ)というそうだ。

Photo_4  この鳥も渡り鳥だと教えられたことがあった。 この時季になると現れる。 元日に娘と二人で、初日の出を迎えた公園にやってきて以来の再訪問で、野鳥たちに迎えられた。

Photo_5Photo_6Photo_7  「光の輪のむこうに」 「水車」 「休憩所」 などを撮ったが、まだ寒くてゆっくり楽しむ雰囲気ではなかった。

2009年2月 5日 (木)

気動車の登場

PhotoPhoto_2  ガソリンエンジンを鉄道車両に応用した、気動車が登場した。 蒸気機関車よりも運転操作が簡単で機動性にも優れ、さらに安価だったことから、各地の私鉄をはじめ、国鉄の非電化路線で広く活躍した。

 マーチャンが初めて気動車を見たのは、高校生の時の筑波線だった。 今の土浦駅の一番ホーム左側に停車していた。 土浦駅から岩瀬駅まで通じていた筑波線は、乗降客で賑わっていた。 沿線沿いの通勤・通学客が当時は多かったのだ。 高校時代の3年間は、新真鍋駅からこの気動車に乗って、筑波登山をした。

 つぎの気動車との出会いは、常磐線赤塚駅から出ていた石塚線であった。 赤塚駅のホームに気動車が、常磐線下り列車の乗客を待っていた。 朝夕のラッシュ時には、気道車に寄せ集めの古びた客車を連結して牽引していた。 赤塚を発つと上水戸・曙町・大学前と進んでいた。 茨城大学前の駅のホームは狭いので、はみ出して停車していた。

 あの頃一緒に乗り降りしていた人たちは、今どうされていることだろう。 混雑した車内で、肩すり寄せて心を弾ませた青春時代の思い出は今何処?である。 

 この気動車も姿を消した。 最後まで頑張った、石岡~鉾田間27.6kmの鹿島鉄道線が数年前に廃線となってしまった。 元々は、鹿島参宮鉄道の路線であったので、参宮線とも呼ばれていた。 常磐線の車窓から見られた、カラフルな気動車ともお別れだった。

2009年2月 4日 (水)

電気機関車の登場

Photo  昭和21年(1946)に、戦後初の新型電気機関車が登場した。 

 このEF形式の蒸気機関車は、昭和27年(1952)からは、客車の暖房もできる大型の蒸気発生装置が取り付けられ、特急「つばめ」を引くなど、東海道本線の主力機関車となった。

 昭和32年の夏、土浦一高野球部が安藤遊撃手を擁して甲子園出場を果たした。 マーチャンはまだ学生であったが、左腕清沢投手の岐阜商との2回戦の応援に駆けつけた。

 蒸気機関車が走っていた常磐線から、電気機関車に牽引された東海道線の装備とスピードに目を見張った。 大阪に入って、私鉄の電車に乗り換えたが、その速さにもびっくりした。 車両が、レールから飛び出しそうな勢いだったことを思い出す。

 帰り道、上野駅にたどり着いて常磐線に乗り継いだ。 長旅にホッとした心地がした。 乗っているお客さんも、茨城や福島の人が多く懐かしい方言が飛び交っていた。

 蒸気機関車にひかれた列車は、汽笛を鳴らしながら自然の多かった山野を黒煙をたなびかせてのんびりと走っていた。

2009年2月 2日 (月)

蒸気機関車

57135  昭和50年、最後の旅客用列車を牽引したことで有名な、蒸気機関車C5713である。

 常磐線取手~勝田間が交流電化されたのは、昭和36年(1961)であるので、マーチャンは高校・大学生だった頃は蒸気機関車に乗っていた。

 高校3年間は、神立~土浦間を毎日往復していた。 列車が上りホームに入ってきて渡り階段を夢中で登っていった。 そしてデッキにぶら下がって風を切って走る醍醐味を味わっていた。  駅を離れるにつれて速度を徐々に増し、最高時速でも75キロ程度の速さであったが、連結部分の振動が激しく、風向きによっては煤煙を被ることもあった。

 当時は闇米を背負って、東京へ向かう人が沢山乗っていた。 一斉摘発の情報が入るのか、途中の駅で逃げるように下車する光景も見られた。

 就職して間もない頃、夏休みを利用して妹と一緒に北海道の兄を訪ねた。 常磐線に乗って、福島県に入るとトンネルが続き,トンネルの中では格子戸のようなブラインドから煙が充満してきた。 急いで窓を閉めるが、新調したワイシャツの襟は炭殻で黒くなってしまった。 長い列車の旅で、青森にやっと辿り着いた懐かしい思い出ででもあった。

沼地公園からの展望

PhotoPhoto_2025  市役所の周辺を散歩してきた。 家内の案内で、市役所のすぐそばにある沼地公園へやってきた。 こんな素晴らしい場所があるとは知らなかった。

 昭和48年、沼知豊三郎氏88歳の時 筑波山・旧市街・霞ヶ浦を展望できる丹精込めた壮大な自然を市民のために寄付されたという。 沼知先生は、常陸太田に生まれ、東京帝国大学を卒業後 富山県・千葉県の農業学校で教鞭をとられていた。

 戦後この地に戻られ、丹精込めた珍しい植物を育てながら、自然に親しまれていたという。 またこの高台には、天神山古墳が存在している。

Photo_3Photo_4  沼知公園のコブシが青空めがけてたくましく枝を伸ばしていた。 モクレン科の落葉広葉樹のモクレンは、四月の開花期には、白い花を梢いっぱいに咲かせ、市街地からも見ることができるという。 

  遅ればせながら、先人の偉大な志に深い敬意を覚えながら散策させていただいた。

2009年2月 1日 (日)

汽笛一声新橋を

1292PhotoPhoto_2  明治5年(1872)、新橋ー横浜(桜木町)間に最初の鉄道が開業した。 

 文明開化を誇る大事業のスタートであった。 当時は片道徒歩で一日掛かりであったものを、時速34キロ、53分で走ったという。 途中の停車駅は品川、川崎、鶴見、神奈川であった。

 明治32年(1899)に発表された『鉄道唱歌』は、マーチャンの先輩がよく歌っていた。

 『 汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として 』 いつの頃からか、この唱歌も過去のものとなって聞かれなくなってしまった。

 江戸時代に埋め立てられた汐留の一角に、新橋停車場ができて東京の玄関となリ、日本近代化を象徴する場所となった。 大正3年(1914)の東京駅開業後は貨物専用の汐留駅となって、日本の経済発展を支えた。

 昭和61年(1986)、汐留駅は114年の歴史に幕を下ろし、新しい都市計画のビルが建ち並ぶ所となった。

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