« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »

2009年5月

2009年5月31日 (日)

写生会

PhotoPhoto_2  つくば市古来のバラ園で、子どもたちが無心で写生をしていた。 地域の子供会の催しなのだろうか、親たちが飲料水を配っていた。 親子のふれあいの場としては、最高の環境である。

 マーチャンも中学校に勤めていた時、土浦港周辺で全校一斉の写生会があった。 現地集合現地解散のため、交差点での交通指導に当たった。 生徒たちは、歩きまわって絶景ポイントを探しまわっていた。 翌日提出された作品を楽しみに観賞したものだ。

Photo_3Photo_4Photo_5Photo_6Photo_7 昨夜の某テレビで、フランスの印象派の画家ルノアールの生涯について語っていた。 美しいモデル嬢の、透き通るような絵が何枚も紹介された。 彼はまた生涯を通して花を描き続けていたという。 そして晩年まで、不幸な絵を描かなかったともいわれていた。

2009年5月30日 (土)

横浜みなと博物館

PhotoPhoto_2  日本丸を通り抜けると、横浜みなと博物館があった。

 入口からフロアを通って、展示場になる。 『撮影禁止』を厳しく言い渡された。 ペルー提督率いるアメリカ軍隊と、ちょんまげ姿の幕府の侍たちとの港での対面の様子が大きな絵画で飾られていた。 いろいろ歴史物が陳列されていたが、マーチャンの記憶にはわずかしか残っていない。

Photo_3117

 再びフロアに戻って、デジカメをとり出した。 床には現在の横浜の航空写真が張り詰められていた。 停留されている日本丸も映っていた。 数日後には、横浜マリーンタワーがオープンしたという。 登れなくて残念でならない。

Photo_5Photo_6 昔の横浜の港の様子を、垣間見ることのできる 映像に出会った。 木造りの民家と外国船の浮かぶ港が見える。 人力車に乗った、蛇の目傘をさした着物姿の女性は貫禄があった。

2009年5月29日 (金)

健康温泉入浴法

Photo  最近宿泊した、作並温泉の一の坊である。 温泉旅館では、睡眠前と早朝の2回くらい、温泉とそばにある露天風呂にどっぷり浸かって満足してくるのが常である。

 昨日は生涯学習センターの講座『健康温泉入浴法』の開講式があった。 2倍の応募者があり抽選で、40人の中に入ることができた。

 来週は那須の八幡温泉とつつじ平、7月には会津の熱塩温泉と森林の日帰り現地学習となる。 『 朝早くから一日掛かりの強行軍です。 健康的とは言えませんが! 』 講師の先生が前置きしていろいろ話してくれた。

 マーチャンも毎日、入浴剤を加えた熱めのお風呂にどっぷり浸かっている。 先生が、ぬるめのお湯での半身浴の効用を説いていた。 お臍の少し上くらいの深さの湯ぶねで、ゆっくり温まるといいという。 全身の血液が均等に循環して、疲れをほぐしてくれるのだ。

 『前身が寒くて困るんですが?』 マーチャンが質問した。 『 その時はタオルを肩にかけてお湯をかけてやればいいでしょう。』 など詳しく教えてくれた。 昨夜さっそく実行してみた。 しばらく入っていたら、顔中に汗がにじんできた。 今までは、暑い湯ぶねにどっぷり浸かっていたが、水圧で全身の血液が上半身に集まり心臓に負担をかけていたのだ。

2009年5月28日 (木)

里芋

Photo_2Photo_3  茨城大学農学部農場のサトイモ畑である。 黒いビニールシートで包まれたサトイモが順調に成育していた。

 マレー地方が原産だといわれるサトイモは、地下部分(塊茎)を食用としている。 マーチャン農園でも新芽がでそろってきた。 本格的なサトイモ農家では、夏の干ばつ期には大量の水をホースで流している。 自然任せのわが家でも、一株に10個以上は収穫できた。

Photo_4Photo_5  この他にナス・スイカ・ピーマンなどが栽培されていた。 6月からは、野菜の直売も行われるという。

 今年も農地を解放して、栽培体験を募ったところ受付当日の数時間で締め切られてしまったという。

 最近ホームセンターの店頭で、野菜の苗を買っていく人が目立つ。 自分で育てた野菜は新鮮であり、栽培そのものが心の癒しになるのだろう。  

2009年5月27日 (水)

トマトトーン

Photo  トマトやナスなどの着果・肥大・熟期を促進するというトマトト-ンを利用し始めた。 花が咲くとシュッと一吹き何気なくかけていたが、花の房にだけかけてやり、穂先にかけてしまうと大切な生長点を傷めてしまうことを初めて知った。

 Photo_2Photo_3  茨城大学農学部とマーチャン農園のトマトハウスを並べてみた。 近くにいた先生にお話を聞いた。 「肥料は外側に入れて根が外側にのびるようにしている。」 「昆虫やトマトトーンは着果を確実に行ってくれる。 受粉ができないと奇形のトマトになってしまう。 大学ではトマトトーンを使用していない。」  「湿度が多いと病気にかかりやすくなる。」 

 先生が花壇の雑草を刈り取って、四角い容器に入れて蓋をしていた。 「ミミズが草を堆肥に変えてくれるんですよ! 願わくば雑草の種も食べてほしいのですが。」

Photo_4  マーチャン農園のトマトハウスは、5年目を迎えた。 外枠は、篠棒からキュウリパイプに変わった。 板橋の従弟夫婦が今年は組み立ててくれた。 キュウリパイプを固定するのに鉄棒をX型にしてみた。 横棒を減らしてみたが、風に耐えてくれている。 専門家は、一株40個が目標だがわが愛しいトマトは、15個くらいである。

2009年5月26日 (火)

ジャガイモ畑

PhotoPhoto_2  茨城大学農学部の広いジャガイモ畑を撮った。 北海道のジャガイモ畑が思い出された。

 マーチャンも、今年は男爵・メークイン・北アカリの3種類を6キロほど植えた。 ソラマメのそばに植えたので、ヒョロヒョロしている。 昨日家内と生協に行って、雲仙のジャガイモを買ってきた。 ジャガイモの揚げ物は欠かせない。

 ジャガイモはペルー南部チチカカ湖畔が発祥といわれるそうだが、スペインを通してヨーロッパへ伝えられたという。 現在は世界中で栽培されている。 戦後ロシア人の若い夫婦が隣に住んでいたが、脂っぽいジャガイモ調理を御馳走になったことがある。

 前にも触れたことであるが、樺太にいた時は白ジャガ・赤ジャガの2種類があった。 白ジャガは、男爵のようだったが、赤ジャガはとくに美味しかった。 食糧難の時代だったので、ジャガイモの皮を厚くむき蒸かしておやつに出してもらった。 赤ジャガは果肉の中心には卵の黄身のような部分があって、これが甘くて絶妙な味がした。 海岸近くの水はけのよい畑で育ったジャガイモは最高だった。

2009年5月25日 (月)

茨城大学農場見学

PhotoPhoto_2  久しぶりに、阿見にある茨城大学農学部の農場見学にやってきた。 昼下がりの一時、受付窓口で気持ちよく受け入れていただいた。

 梨のような巨木の果樹が、伸び伸びと枝葉を伸ばしていた。 この右手に牛舎がある。 お馴染みのギューちゃんに再会した。

Photo_3008  子牛たちがかなり成長していた。 多くの学生さんと接しているためか、マーチャンが近くに寄っても避けることがない。 親牛がやって来て、長いねっとりとした舌をのばして歓迎してくれた。

Photo_4Photo_5Koremo  モーチャンが柵の隙間から顔を覗かせてくれた。 陽ざしを避けて、ブドウ棚の下に集まっている牛たちもいた。

 インドでは牛は神聖な動物だっという。

 聖地ベナレスのガンジス川では、数頭の牛が入浴して、疲れた体を癒しているという。 路上を闊歩している牛を、車は避けて通るという。 そんなところに行って、牛に会いたいものだ。

2009年5月24日 (日)

日本丸3

PhotoPhoto_2Photo_3Photo_4  日本丸のデッキから階段を降りて、船室を見学した。 訓練生の教室やベッド・炊事室などがあった。

 昨年の1月7日に投稿した、樺太からの引き揚げ船の思い出を振り返っていた。 昭和22年3月末、マーチャンは小学校6年生を迎えようとしていた。 寒風の吹きつける真岡の波止場に引き揚げ者の長蛇の列ができた。 岸壁には、宗谷丸と間宮丸が停泊していた。

 稚内と大泊の定期船だった宗谷丸は、改造して南極探検船になったと聞くが、その船のタラップを登って行った。 「引き揚げ者の皆さん御苦労さまでした!」赤十字の腕章をつけた女性が声をかけてくれた。 マーチャン家族5人は、船底の部屋に漬物樽と隣り合わせで夜を明かすこととなった。

 樺太の山河と最後の別れをするため、デッキには鈴なりの人垣ができた。 船酔いが激しいおふくろとマーチャンたちは、寝床に戻ってうずくまってしまった。 翌朝デッキに登ったころは、函館へ向かう船は北海道の沿岸をとらえていた。 大きな鉄がまがいくつかあり、ご飯とみそ汁を焚いてくれていた。 その味は、生涯忘れらえないものとなった。

 日本丸も引き揚げ者のため、活躍してくれたのだ。 感謝の気持ちがこみあげてきた。

2009年5月23日 (土)

日本丸2

089_2Photo_2  日本丸の操舵室に入った。 船長になった気分で、あたりを見回した。 ほぼ中央に聞きなれない操舵用の『レピータコンパス』があった。

 先人たちは星を頼りに航海していた。 その後方位磁針と同じように、地球の磁場を利用した羅針盤が用いられた。 このレピータコンパスは、ジャイロコンパスの指度を電気信号にかえ、1度刻みで全周360度の指示表示ができるという。

Photo_3Photo_4  地球を約50周近く航海してきた、日本丸の雄姿がランドマークタワーのたもとに停泊している。

Photo_5  4本のマストがそびえ立っていた。 元乗組員だった人が、船内を案内して回っていた。 荒海の中を逞しく疾走してきた日本丸の、在りし日の面影を想像してみた。 

2009年5月22日 (金)

日本丸

PhotoPhoto_2Photo_3079  横浜のメモリアルパークに停泊している 日本 に近づいた。

 文部省の航海練習船として、昭和5年(1930)に進水した帆船である。 設計はスコットランドの会社で、神戸の川崎造船所で建造されたという。 当時としては、大がかりなプロジェクトであったという。

 当初は、太平洋を中心に訓練航海し、戦時中は帆を降ろして石炭の輸送・戦後は復員船として、25,428人の引き揚げ者を輸送した。 朝鮮戦争の時は、難民の輸送にも携わった。

 昭和59年(1934)の退役まで、約183万km(赤道一周4万km)を航海し、約11,500名の実習生を育てたという。 マーチャンは年齢割引の300円の入場料で乗船した。

2009年5月21日 (木)

バラ園鑑賞

PhotoPhoto_2  眼科の定期検診の帰り道、車を止めて筑波山をしみじみと眺めた。 水の張った広い田圃の上をさわやかな風が流れていた。 まさに懐かしい田園風景である。 機械化が進んで、田圃も昔より広くなってきた。 あぜ道を渡って、ドジョウやザリガニをとっていた少年時代とは様変わりである。

Photo_3Photo_5Photo_6  見事に咲きそろったバラ園が目にとまった。 つくば市の名誉市長だった、H氏宅 の庭先に開かれたバラ園である。 臨時駐車場が設けられ、多くの市民が見事に咲きそろったバラを鑑賞していた。

Photo_7Photo_8  薔薇のつるが小屋の屋根まではっていた。 昨年の夏に訪れた八ヶ岳クラブを思い出した。 我が家には四季咲きのバラが数本ある。 近所のYさんからいただいたものである。 Yさんの庭はバラで囲まれている。 朝夕まめに手入れをしている。マーチャンにはできない。

 062

2009年5月20日 (水)

横浜コスモワールド

PhotoPhoto_2  コスモロック21からの展望の続きになる。 あいにくの曇り空と、窓ガラスのため映像がぼやけてしまった。

 大人も子どもも楽しめる都市型立体遊園地とは言え、マーチャンのようの人間が一人でうろつく姿は異様としか言えない。 ブログを続けるようになってから、デジカメを2個ぶら下げて早足で巡ってきた。

Photo_5  真下にジェットコースターが走っていた。 時々甲高い悲鳴が聞こえてくる。 あれは、子どもたちが小学生のころデズニーランドへ家族4人で行った時のことだった。 長い行列の最後尾に並んだ。 熱帯の砂漠のような丘を、おもちゃのようなトロッコがカタカタと音を立ててゆっくり登って行った。 やっとの思いで乗車して間もなく、トロッコはスピードを上げ始めた。 何とジェットコースターであったのだ。 猛烈な勢いで、地下のトンネルに突入した。

 マーチャンは一瞬自分の首がちょん切られるのではないかっと思った。 あれ以来、子どもにせがまれても一切乗ることはなくなった。

2009年5月19日 (火)

コスモロック21

Photo  横浜のシンボル『コスモロック21』は、高さ112、5m、定員480名で世界最大の時計機能をつけた大観覧車である。 歩きくたびれて、約15分の空中散歩で360度の雄大なパノラマを窓ガラス越しに撮りまくった。 平日とあって乗客は少なく、修学旅行の高校生たちはジェットコースターなどに走って行った。

Photo_3  高さ295,8mの日本一高い横浜ランドマークタワーを眼下に望むようだった。 公民館に勤めていた時、地域婦人会の人たちと、動く歩道を渡ってこの超高速ビルに登った。 当時は世界で一番高速のエレベーターで展望台に立ちご満悦だった。

Photo_4  こちらは、パシフイコ横浜のインターコンチネンタルホテルだ。 最後の勤務校の職員旅行で、若い先生方の企画でこのホテルに泊まった。 夕食は、船に乗って横浜中華街の古風な中華レストランでとった。 

 S教頭さんと二人きりの部屋で慣れないベッドで一夜を明かした。 翌日は、まだ建設中だった横浜港未来をみんなの後について見学した。 お帰りは現地解散となった。 マーチャンとS先生はひたすら我が家に向かって帰ってきた。 観覧車の中で、過去の思い出が走馬灯のように蘇ってきた。     

2009年5月18日 (月)

ベイサイドエリア

PhotoPhoto_2  赤レンガ庭園から、ベイサイドエリアに足を向けた。

 横浜の海と港を背景に、様々なイベント会場が集まる中心エリアである。 過去から現代、そして未来へと繋ぎ残していく『絆』がテーマのSFファンタジー『バトン』が上映されていた。  

Photo_3  話題の巨大スペクタルアート『ラ・マシン』がお休み中だった。 フランスの劇団が創りだした、高さ約12メートルの巨大なアート・マシンが街を舞台に繰り広げる。 歩道橋から、その威容を垣間見ることができた。

Photo_4 横浜のシンボル全長860メートルのベーブリッジが霞んでいた。 初めて娘と船に乗って、八景島に向かった時、この橋の下を通過した。 方言丸出しで語りかけるマーチャンとの対応に、周りを気にしていた娘の素振りが懐かしく思いだされた。

2009年5月17日 (日)

新緑の季節

PhotoPhoto_2  マーチャン農園のそばにそびえるケヤキの木が、見違えるようになった。 4月5日はまだ梢がむき出しだった。

 4月20日には若葉が茂っていた。 白神山地のブナの木の幹に耳を当て、地中の水を吸い上げる音を聞いたことがあった。 春先の大雨を大地から吸収して、あたりの樹木も一斉に活気を見せてきた。 見事に咲いた桜の木もすっかり青葉に変身してしまった。

Photo_3Photo_4Photo_5 愛用の軽トラを止めて、桐の開花を鑑賞した。 1年前に同じ景色をブログに投稿してきた。 

 春先マーチャンの手元に、桐の紋章の入った麻生太郎総理大臣名の書状が届いた。 戦前樺太の地で苦労をしたことへの気配りの言葉が述べられていた。 桐の小箱に小さな銀杯が添えられていた。

 今年で最後となる、海外在住体験者に贈られるきかくであったが、該当者の2~3割にしか手に届かなかったと報道された。 マーチャンの兄が、新聞で知り申告したのできょうだいはいただいた。 樺太で生活を共にしたいとこにも知らせたという。

 国の無駄使いが問題になっている。 この銀杯が無駄だとは一概には言えないが、マーチャンの遺品として残るくらいであろう。  このことよりは、小学校5年生までの10年間の樺太での生活体験は、生涯の思い出であり宝ものとなってきた。

2009年5月16日 (土)

海上保安庁巡視船しきしま

012Photo  赤レンガ倉庫を出ると、港に巨大な船が目にとまった。 海上保安庁の巡視船しきしまであった。 イージス艦に迫るサイズの、世界最大の巡視船だという。 ヘリコプター2機搭載型で、1992年に英仏から日本までの、プルトニウム運搬船護衛の任務を行った。

Photo_2Photo_3Photo_4Photo_5  海上保安資料横浜館へ入った。 生々しい工作船の展示館である。 

 平成13年12月22日に発生した、九州南西不審船の工作船及び回収物が展示されていた。 バズーカ砲などの物騒な武器もあった。

 昨春の中学校の同窓会の時、はるばる鹿児島からやってきたT君は、海上保安庁に勤務していた。 全国を巡って、最終の勤務地近くに住んでいる。

 海上保安庁は、海難救助・交通安全・防災及び環境保全・治安維持が任務であるという。 領海警備・海洋調査など海洋権益の保全という大きな任務も担っている。

2009年5月15日 (金)

横浜赤レンガ倉庫

009PhotoPhoto_2  桜木町駅前のバス停から、赤レンガまで100円の直行バスに乗ってやってきた。

 横浜赤レンガ倉庫の2号館は、明治44年(1911)に竣工し、平成14年(2002)に商業施設に衣替えした。 前に訪れた時と同じ食堂で、同じオムライスを注文した。 おのぼりさんには、自然な流れである。 娘たちにメールを送った。 仕事中の娘たちから、昼休みに迷惑そうなおざなりの電話があった。 前回は同じ携帯で、親切に道案内をしてくれたのに。

 マーチャンが中学校に勤めていた時、「浜シャツ」という流行のシャツがはやった。 学ランとともに、生徒指導上問題視された代物である。 今にして思えば、なぜそこまでやるのといわれそうだが、教え子に説得してきた思い出がある。 当時の流行の先端は横浜だったように感じていた。

2009年5月14日 (木)

横浜開国博150

PhotoPhoto_2  あてどもなく桜木町駅を降りた。 横浜、150年目の大博覧会が9月27日まで開かれている。

 安政6年(1859)の開国・開港から150周年を迎えた。

 昨年のNHK大河ドラマ『篤姫』でも、幕府の混乱ぶりがうかがわれた当時の歴史を調べてみた。

 嘉永6年(1853)、アメリカのペリー提督が4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、日本の鎖国政策を変え、港を開くよう要求する。 安政元年(1854)、幕府は「日米和親条約」を結び、その後、安政5年(1858)、「日米修好通商条約」を結び、諸外国との交流を始めた。 

 そして、安政6年(1859)、神奈川・長崎・箱館を開港し外国との自由貿易を許可した。 当時の横浜は小さな漁村であったという。 幕府は日本人と外国人を遠ざけるため、宿場町から離れたこの地を選んだという。 

2009年5月13日 (水)

小松廿三夜尊

Photo  小松坂下から阿見に向かった125号線沿いに、三夜下停留所がある。

Photo_2Photo_3  その近くから急な石段があった。 また側面からはなだらかな石畳の道が木立に包まれていた。 土浦桜町の歌人である、川村歌子さんが『 みほとけに 恋ひつゝのぼる女坂・・・ 』と歌に詠んでいる小松勢至ヶ岡にいたる道である。

Photo_4Photo_5  本堂の中には、鎌倉時代中期の作である、薬師如来座像・阿弥陀如来立像・安産不動尊…が祀られていた。

 大和町に住んでいた、家内の伯母が元気だったころよくお参りに訪ねたという。 今でも縁日には集まりがあるようだが、こうした信心は昔とは変わりつつあるような気がする。

Photo_6  文化13年の年号の入った供養塔が、女坂を登りきったところにあった。 第十一代将軍 徳川家斉の時代である。 50年間も将軍の座につき、さらに4年の大御所として絶大な権力を握った家斉は、大奥に山ほどの女性を侍らせ幕府の財政を圧迫させたという。

2009年5月12日 (火)

旅順陥落

PhotoPhoto_2  退職校長会の文書配達のため、度々小松町を訪れる。 帰り道散歩がてら、石畳の敷かれた坂道を登って行った。 お寺の入り口に草に覆われた『旅順陥落記念』の石碑が覗かれた。

 100年以上前、1904年8月から5ヶ月間にわたって行われた旅順攻防戦があった。 日露戦争において、ロシア太平洋艦隊を殲滅してヨーロッパより航回してくるバルチック艦隊を迎え撃つ必要があった。

 ロシア帝国が太平洋艦隊の母港としていた旅順の203高地には、大量の機関砲を装備して待ち構えていた。 乃木希典大将率いる日本軍と激戦が交わされた。 この戦いで、両軍とも5,000の戦死、10,000の負傷者を出した。

 マーチャンが中学生の時、おふくろの実家であった八郷の旧家でおばあさんからこんな話を聞いた。 『家の裏の竹やぶに、パラパラパラと鉄砲の弾のような火の玉が飛んできたんだよ!』 祖母にとっては義弟にあたる辰二郎さんが、1939年に起こったノモンハン事件で戦死した直後、故郷に魂が帰って来たのだと信じていた。 日露戦争から太平洋戦争へと歩んだ悲惨な時の流れであった。

2009年5月11日 (月)

長瀞岩畳

PhotoPhoto_2120  埼玉県の西北部、荒川の中流域に位置する景勝地長瀞を訪ねた。

 土浦市内の中学校に勤め始めたころ、夏休み理科主任会での現地研修会が行われた。Photo_4

 日立の高校の地学の先生が講師で、長瀞周辺の岩石について学んだ懐かしい思い出が蘇った。 国指定の名勝・天然記念物『長瀞岩畳』は変成岩が地表に露出しているところである。 滑らかな壁面は、南北方向にのびる垂直の割れ目によって、岩がはがれ落ちて形成されたという。

Photo_5Photo_6  対岸の秩父赤壁が連なっていた。 ピンク色に輝く,美しい紅簾石を含む結晶片岩の露頭である。

 今年の四月に2度にわたっての大霜にあって、天然フジが全滅してしまったという。 岩陰で可憐に咲き残ったフジを見ることができた。

2009年5月10日 (日)

美し山公園

Photo  花を求めて、美し山公園へ向かった。 「埼玉県に桜の名所をつくろう」と約10,000本植物を植栽して、昭和54年に開園した。

Photo_2Photo_3  雨音が強くなるなか、園内を散策した。

 晴天なら、秩父盆地をはじめ秩父連山、遠くは赤城山・日光連山を望むことができるはずであった。

Photo_4Photo_5  金子伊昔紅の碑が建っていた。 『 一目千本  万本咲いて かすむ美の山 花の山』 伊昔紅は、秩父音頭を手がけて、埼玉の代表民謡に再生させたという。

2009年5月 9日 (土)

羊山公園 芝桜の丘

PhotoPhoto_2Photo_3  雨の降り続く秩父市羊山公園へやってきた。 9種類、約40万株の芝桜が丘に敷き詰められていた。 このデザインは、秩父夜祭の紅白襦袢模様をあらわしたという。

Photo_4Photo_5Photo_6  花の盛りが過ぎて、雨に打たれた芝桜のそばに品種の案内板があった。 これでも撮らなくてはならないブログ取材となてしまった。

Photo_7  バスに戻って、添乗員から絵葉書のパンフレットを渡された。

 晴天であれば、1,304メートルの武甲山を望むことができたのだ。 自然観光は、天気に左右される典型であった。

2009年5月 8日 (金)

牡丹園

Photo015  箭弓稲荷神社牡丹園は、雨が降ってしっとりとしていた。 大正12年(1923)に東武鉄道初代社長根津嘉一郎氏から奉納された。 ボタンの原産は中国で、中国史上唯一の女帝、則天武后も愛でたという。 

Photo_5Photo_6Photo_7Photo_8  ボタンの花は盛りが過ぎていた。 シャクヤクは蕾が開きかけていた。

 ボタンは樹木であるのに対して、シャクヤクは草である。 宿根草であるシャクヤクを、おやじが珍しく育てていたことがあった。 霜除けのため藁で覆い、春にみごとな花を咲かせていた。

Photo_9Photo_10  樹齢250年以上はあるといわれる『延命(ながらへ)のフジ』、これも根津社長の奉納したものであった。

Photo_11Tutuji 雨の園庭はしっとりとしていて、心が休まる気がした。

2009年5月 7日 (木)

箭弓稲荷神社

007  連休最終日、日帰り花見ツアーに参加した。 関越道東松山を降りて『箭弓(やきゅう)稲荷神社』に参拝した。

 長元3年(1030)に下総国の城主平忠常が大軍を率いて、この地にやってきた。 これを討伐するため、源頼信がこの神社に詣でて、太刀一振と馬一頭を奉納した。 するとその夜、白羽の矢のような形をした雲が敵陣の方へ飛んで行った。 これを目撃した頼信は神のお告げだと確信し、敵陣に攻め込み快勝したという。

PhotoPhoto_2Photo_3Photo_4  由緒ある、この箭弓稲荷大明神の社殿に相応しい造りが見られしみじみと拝見してきた。

2009年5月 6日 (水)

土浦港2

012_2 京成マリーナにはホワイトアイリス号が停泊している。 県の「霞ケ浦湖上体験スクール」の横断幕が張られていた。

Photo_6  沖に向かうヨットが、堤防に立つ小さな灯台の周りに見えた。 茨城国体の時はヨット競技の会場となった。

1_2Photo_7 霞ヶ浦の浄化に使用されている、クリアウオータ号が停泊していた。 霞ヶ浦の湖底で採取された砂の山がいくつもあった。 浄化と再利用ができるなら結構なことである。

Photo_8Photo_9 霞ケ浦環境科学センターのわかさぎ号を見つけた。 昨年同所の人に聞いたが、この船で霞ケ浦の魚類を採取して観察しているとのことであった。Photo_11  霞ヶ浦を甦らせる努力は並大抵ではない。

 このような自然いっぱいの霞ケ浦湖畔を知っているのはマーチャンの世代しかいない。  

2009年5月 5日 (火)

土浦港

Photo  連休スタートの29日、実家へ行った帰り道土浦港に寄ってみた。 霞ヶ浦流域下水道事務所の裏手に当たる。 昭和40年代は、神林といって釣り船が停泊していた。 ヨシやマコモの茂っていたこの辺りは、ご覧の通りのコンクリート岸壁となっていた。

Photo_2Photo_3  遊覧船『ジェットホイルつくば号』 が沖合から水しぶきをたてて入港してきた。 折り返し、霞ヶ浦に向かって出港して行った。 連休で土浦港にも観光客が訪れてきているようだ。

Photo_4Photo_5  小型のモウターボートがやってくる。 土浦港には個人所有のこれらの船が沢山停泊している。 休日になると船を出して楽しんでいるようだ。 豪勢なレジャーでうらやましい限りだ。

2009年5月 4日 (月)

トマトハウス

PhotoPhoto_2Photo_3  板橋のいとこ夫婦がセルシオに乗って、マーチャンの畑にやってきた。 トマトハウスの外枠のビニール張りを二人で完成してくれた。 「4つめは16分でできたよ!」と満足そうだった。

 『マーチャンには昔から使われる宿命にあるんだな!』 彼が小学生のころまで、同郷で育った。 粗末なグローブでよくキャッチボールをした。 運動神経の良かった彼は、だんだんスピードボールを投げるようになった。 「マーチャンはキャッチボールを避けるようになったよな! それから、スルメを焼いて、俺には足しかくれなかったからな!」 今になって恨み節を語りだした。

 彼は千葉大学で体育を専攻した。 東京の中学校で教師をつとめた。 今でも多くの教え子がしたっているようだ。 野球部の顧問を長くやっていたが、以前のロッテオリオンズの主砲だったH氏もいたという。 「僕は彼に何も教えなかったからよかったんですよ。」

 生徒指導でも問題生徒と友達のように付き合ってきたという。 教え子の中の二人は彼の思い出を出版して話題を投げているという。 彼は、時々あちこちで講演を頼まれているそうだ。

 野鳥の鳴き声を聞きながらの、マーチャン農園での体験が、二人にとっては貴重なようだ。 板橋の知人にもマーチャン農園の話題が広がっているという。 

2009年5月 3日 (日)

霞ヶ浦総合公園2

Photo2  3月20日の霞ヶ浦公園の桜は満開に近かった。 連休を迎えて弘前の城址公園には、何百万人もの花見客が訪れるという。 桜は津軽海峡を越えて、函館の五稜郭まで達したようだ。 日本列島は南北に連なっているため贅沢な桜見物ができる。

1Photo_2Photo_3  道路の反対側の池のある公園に向かった。 ソメイヨシノやしだれ桜が奇麗だった。 この先には築山があって、滑り台や子どもたちの遊具施設がいっぱいある。

 この周辺をジョギングしている人もいた。

Photo_4Photo_5 国民宿舎水郷も桜の花で囲まれていた。 駐車場には車がいっぱい入っていた。 霞ヶ浦に面した宿泊の宿からの眺めは最高だろう。

2009年5月 2日 (土)

霞ヶ浦総合公園

Photo_5Photo_6  今年の春は例年より早くやってきた。 マーチャンは3月20日の昼下がり、散歩がてらに霞ヶ浦総合公園へやってきた。 赤いチューリップ(レドインプレッション)がみごとに咲きそろっていた。 このオランダ型風車は、土浦市制施行50周年記念で建てられた。 高さ25mの八角形鉄骨構造で、羽根の長さは20mある。 4枚の羽根が電動でゆっくり回っている。 高さ7mの展望台からはか霞ヶ浦や筑波山が望める。

 この風車は、霞ケ浦の水を 50㎥/時 吸入して連続して砂などをろ過し水を浄化しているという。

Photo_7Photo_8  ネーチャーセンターの周りの広場には、子どもずれの家族や散歩している人たちが交差していた。

 「光の輪の向こうに」 元日に娘を伴って初日の出を撮った時は、寒さとの戦いであった。 今日は穏やかな霞ヶ浦が覗かれた。

2009年5月 1日 (金)

ミツバチ発見

PhotoPhoto_2  きのうは、ゴウヤ・ナス・キュウリの苗を定植した。 畑は乾燥気味だったので、苗のポットに水をたっぷり含ませて植え込んだ。

 ブロッコリイーの花に昆虫が集まっていた。 今数を減らして問題になっているミツバチが花の蜜を吸っていた。 モンシロチョウも飛び出した。

Photo_3Photo_4Photo_5Photo_6Photo_7  庭に出て花の蕾を撮った。 スズラン・スターチス・ゼラニューム・バラ・チロリアンランプである。 蕾は若々しくて新鮮だ。 どんな花をつけてくれるのか期待が持てる。

« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »

無料ブログはココログ
2010年1月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31