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2009年7月

2009年7月31日 (金)

昇仙峡の奇岩

PhotoPhoto_2Photo_3Photo_4  全長5kmに亘る昇仙峡の渓谷は、川が花崗岩を深く浸食したことにより形成されたという。

 渓谷内には、奇岩がいたるところに見られた。 昇仙峡の主峰『覚円峰』はその昔、覚円が畳が数畳敷ける広さの頂上で修業したと伝えられている。

 今日も拙いブログを投稿している。 先日も25名の方が訪問してくださって元気づけられている。 今マーチャンは、帯状疱疹後の神経痛の激し痛みと対峙している。 同じような悩みを多くの人が持っていることを知った。 今協同病院の麻酔科で、神経を一時的に麻痺させる電気治療を4か所と投薬で経過を見ている。

 帯状疱疹から神経痛になるケースは、年齢・疱疹の広さ・免疫力の低下によるという。円覚和尚や快川国師のような修行に比べたら、甘えてはいられない。

2009年7月30日 (木)

信玄の菩提寺恵林寺

Photo_8Photo_9Photo_10Photo_11  再度になるが、恵林寺の思い出を振り返る。

 天正4年(1576)4月、信玄の菩提寺である恵林寺で信玄の本葬が行われた。 快川を大導師に、嫡男の勝頼が喪主であった。

 その6年後、天目山の戦いで武田は滅びた。 勢いに乗る織田信忠軍は、恵林寺に迫り潜伏保護している者たちの引き渡しを命じた。 これを拒んだため、焼き討ちにあった。

 燃え盛る山門の上で、快川紹喜和尚は『安禅必ずしも水を須いず 心頭を滅却すれば火も自ずから涼し』と偈を発して焼死したという。

 恵林寺の庭園は国の名勝に指定されているが、お寺の回廊から眺めていると時を忘れそうであった。 また信玄のお墓のすぐそばには、江戸幕府の将軍徳川綱吉時代の側用人だった柳沢吉保と正室の墓所もあった。 晩年甲府城の城主となった彼は、病気であった正室定子を常にいたわったという。

2009年7月29日 (水)

富士山と甲府盆地

PhotoPhoto_2Photo_3  山梨県中央部に位置する甲府盆地は、かつては湖底であったと考えられている。標高300mのこの地は、四季が明瞭で寒暖の差が大きいという。

 武田氏が甲斐の守護となって、石和や甲府に館を置くようになってからは、武士の抗争の舞台となった。 

 数十年前になるが、親父たちと家族一緒に平家の落人の湯西川温泉に泊まったことがあった。 炭火の囲炉裏を囲んで、夕餉の宴が行われた。 マーチャンは、グループの代表でマイクの前に立った。 まだカラオケの設備がない時代だったが、春日八郎の『風林火山』の3小節を全部歌いこなした。 「あれは疾風か東海の 砂塵をまいて騎馬はいく~」 武田信玄の残した、情感のこもった歌詞に酔いしれていた。

 数年後、筑波大学で内地留学をした頃、お世話になった教授を囲んでカラオケを始めた。 カラオケとは無縁だったマーチャンは、無理やりに指名されて三橋美智也の武田節を生オケで歌い出した。 恥を知ったマーチャンは、カラオケに励んで人並みに歌えるようになった。 甲斐の山々と遠くに浮かぶ富士山を眺めながらふと思い出した。

2009年7月28日 (火)

滝壺

Photo_2Photo_3  昇仙峡は、甲府盆地北側、富士川の支流、荒川上流に位置する渓谷である。

 昇仙峡の行きどまりにある、仙娥滝は地殻の断層によってできたという。 高さ30メートルの壮麗な滝は紅葉に映えていた。 昇仙峡の更なる奥には、ダムがあった。

 マーチャンの帯状疱疹は、間もなく一カ月を迎える。 傷跡もガーゼや包帯で覆わなくてもよい状態になった。 しかし、左腕にジリジリとした神経痛が残った。 「これ以上は、今までの塗り薬と注射しか治療法がないんだよ。」と先生に言われた。 「冷やすとよくないので、ホッカロンで温めてみては?」お風呂に入って温めたり、ホッカロンで痛みに耐えている。

 『人の一生は、重い荷を負うて 遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。』 徳川家康の教えに従って、じっと耐えていかねばならない。 従弟のマコちゃんと、彼の親友のS君が度々マーチャン農園にやって来てくれる。 きょうは草刈り機で、荒れ放題の雑草を刈り取ってくれるという。 ありがたいことで、気分も晴れる思いがする。

2009年7月27日 (月)

夫婦登山

PhotoPhoto_2  3年前の秋、マイカーで昇仙峡を訪ねた。 ロープウエーに乗って、山頂から富士山や周りの景観を堪能してきた。

 帰り道のケーブルカーは、混雑していた。 椅子に腰かけていたら、ひ弱そうなご夫婦が仲良く立っていた。 「奥さまお掛けになりませんか?」マーチャンは思わず声をかけていた。 

 「ありがとうございます!」といって、「私たちは、よく山登りをしているんですよ!今日もあのあたりを縦走してきました。」 はるかに見える山並を指さして満足そうにおっしゃった。

 マーチャンの義姉夫婦も、神戸に住んでいた時からよく山登りをしていた。 先日訪ねて行ったら、「スイス観光に行って来た後、腰痛にかかってしまった!」と義兄が言っていた。 車で買い物に行けるようなので、そのうち次の旅に出かけられそうだ。

 土浦一高同窓生の義兄は、グリコ製菓の人事課長まで勤めた切れ者である。 すべてに万能で、経験・知識ともマーチャンの比ではない。 いつだったか「中尊寺の月見坂は急なのではーはー息をついてしまったよ!」 とマーチャンが口走ったら「あんな坂はなんっていうことないでしょう!」と一笑されてしまった。   

2009年7月26日 (日)

オールスターゲーム

PhotoPhoto_2Photo_3  野球のオールスターゲームが、札幌と広島で行われた。

 人気のセントラル・実力のパで争われたときと比べると、盛り上がりに欠けたように感じられる。 セ・パの交流戦が行われるようになって、選手同士の対戦にも新鮮さが感じられない。

 江夏選手の奪三振記録や、長嶋・王・掛布・バースなどの派手な選手達のプレーが懐かしく思い出される。 今年のオールスターは大入り満員であった。 札幌ドームでは、稲葉選手を応援するためスタンデングジャンプをしたり、人気チームの選手に対する応援が派手になってきた。 何か都市対抗野球を見ているような気がする。

 それにしても、西武の中村選手のスイングとホームランは見事であった。 相撲でも野球でも外国選手が主役になっている中で、純粋な日本選手の活躍に期待してしまう。 

 郷土の誇りである稀勢の里の活躍もしかりである。 師匠の隆の里は糖尿病を克服して筋トレで鍛えた腕力で、千代の富士の天敵と言われた横綱であった。 大好きだった隆の里の教えを守って、ライバルの琴奨菊を圧倒するような実力をつけてほしい。 

2009年7月25日 (土)

江の島からの展望

PhotoPhoto_2Photo_3Photo_4 アジサイの咲き誇る頃、江の島を訪ねた。

 大船から湘南モノレールに乗って、湘南江の島駅から歩いて展望スポットに達した。 四季を通してテレビに映し出される江の島海岸を、眼下にして気分爽快であった。

 県南病院に入院していた間、司馬遼太郎の「関ヶ原」を読み返していた。 石田三成と島左近が、徳川家康と本多正信の老獪な戦略に追い詰められていく様子が克明に語られていた。 NHKの大河ドラマ「天地人」にも三成が出てくる。 秀吉にその手腕を認められ、秀吉の天下を支えて行った。

 仏教の教えに、「和願施」いつも和やかな顔をして人に接すること 「愛語施」親愛の籠った穏やかな言葉で相手に話すこと  の『和願愛語』がある。 三成に少しでもこの気持ちがあったらと思わずにはいられなかった。

2009年7月24日 (金)

文化の推譲

Photo_5Photo_6  煌びやかな衣装を纏った女官たちが、囲碁や読書を行っていた。

 二宮翁は、『現代の文化は前代の推譲』を説いている。

『滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なお聞こえけれ』大納言公任の歌は、そのことを伝えている。

 マーチャンが挫折している囲碁を、平安時代の女性が楽しんでいる。 囲碁の起源は中国にあり、遣唐使によって日本に伝えられたという。 源氏物語や枕草子にも出てくる。

 最近、囲碁の世界選手権では韓国・中国の棋士が上位を占めている。 個性的であった藤沢秀行名誉棋聖は、中国の棋士の指導に当たったという。 囲碁の究極を求めた彼は、世界的な視野に立って臨んでいたのである。 本因坊戦を戦った、羽根と高尾棋士も彼の薫陶を受けている。

2009年7月23日 (木)

喜びと感謝の心

PhotoPhoto_2Photo_3  二年前、姉兄・妹と四人がそろって、京都御所を見学できた。 最初で最後になるような心に残る観光であった。 おやじの供養のため長谷寺を訪れた帰り道であった。

 昨日は、2週間ぶりに県南病院へ診察に向かった。 お世話になった方々に再会できて、元気をもらった。 U先生も手術の経過が良かったと喜んでくれた。

 奈良の薬師寺管主だった、高田後胤氏が講演の中で『不平不満という毒を消してくれる薬が、喜びと感謝の心である。 この喜びと感謝の心を養うことが幸せへの道である。』と述べている。 マーチャンの傷と疱疹の痛みを、不平不満の毒に置き換えて考えた。

 芥川龍之介の残した言葉に「運命は偶然よりも必然である。『運命は性格の中にある』という言葉は決して等閑に生まれたものではない。」というのがある。 自分自身の心の持ち方、性格によって運命が左右される場合も少なくない。 老後を迎える今、考えさせられてならない。

2009年7月22日 (水)

解散詔書

PhotoPhoto_2  京都御所の御内庭である。 鎌倉中期から明治初期まで、天皇が住まわれていた宮殿の中にあった。

Photo_3Photo_4  歴代の天皇・皇后が女官を伴って、御内庭を散策されていた様子を瞑想した。

 日本古来の伝統文化を一目見ようと、外国人を含めた観光客が目を凝らしていた。

 昨日衆議院が解散された。 天皇の国事行為の一つである、紫の袱紗に包まれた解散詔書が、官房長官から事務総長そして河野議長へ渡された。 『日本国憲法第七条の規定により、衆議院を解散する』たったこの一言で、議員全員が万歳を三唱して閉会となった。

 最近テレビの中で、政争に関わる番組に集中してしまう。 同じようなわかりきった内容にもかかわらず、あきもせずに見入ってしまう。 昨夜は、NHKハイビジョン 皇帝たちの野望 ルイ14世の生涯を視聴した。 栄枯衰勢は世の常と言われるが、総選挙の結末に関心を持つのはマーチャンだけだろうか。

2009年7月21日 (火)

ポプラ並木

Photo_5   八ヶ岳清里の入口に、モノレールがかかっていた。 この先に観光農園があって、トウモロコシ・キュウリ・トマト・ナスなどの収穫体験客が訪れていた。 マーチャン農園の助っ人マコちゃんが、東京の中学生を引率してよくやって来たという。 以前にも述べたが、高台にもかかわらず水をひいて本格的な野菜栽培をおこなっていた。

Photo_6Photo_7Photo_8  広大な敷地には樹木や草花が咲き、子ども連れの観光客が自然を楽しんでいた。

 マーチャンが高校生の時、土浦市営球場で行われた、野球の応援に来た時にはバックネットの後ろにポプラ並木があった。 ポプラは大木になると大量の水を必要になるという。 湖岸に舗装道路が走って、いつの日にか姿を消してしまった。

 この市営グランドで、甲子園を目指して高校野球が行われている。 あの頃は、土浦三高との対戦に夢中であった。 きのうは母校も接戦を制して勝ち進んでいた。 

 チロリアンランプやダリアの花も咲いていた。 

2009年7月20日 (月)

滝涼み

Photo_4  夏になると、猛暑日の話題がニュースとなる。 関東地方では、館林が有名である。

先週銚子の旅館で、囲碁の本因坊戦が行われていた。 解説の武宮九段が、外に出ると寒い感じがするといっていた。 太平洋の親潮と黒潮に洗われる銚子岬は、夏は涼しく冬は暖かい。 内陸にある館山との違いが、この要因にあるのは当たり前である。PhotoPhoto_2 土浦は霞ヶ浦の湖畔にある町であるが、夏は暑く夕立がほとんど来ない。 マーチャン農園としては、毎日が雨を期待して空との睨みっことなる。 県西の古河から、お隣のつくば市までで雨雲は途切れてしまう。

 しかし、霞ケ浦のお陰で遅霜の被害は全くない。  体調が整わないマーチャンは、今年の夏は昨年訪れた土竜の滝の写真を見て暑さを凌ぐしかない。

2009年7月19日 (日)

夏山登山

PhotoPhoto_2Photo_3  八ヶ岳清里のホテルの屋上がら見た夏山である。

 北海道の夏山ツアーで、10人の方が痛ましい犠牲になった。

 マーチャンは大学生の時に富士登山を行った。 前にもその時の思い出をブログに投稿した。 友人2人と従弟の清平君が同行してくれた。 登山靴はなく普通の運動靴であった。 ジャンパーにレインコートを着て、夜の9時河口湖からバスに乗り3合目で乗り換えて5合目に着いた。

 登山開始の時は、六角棒とリュくサックの中には毛布が入っていた。 8合目あたりで御来光を迎えたが、寒いので毛布にくるまっていた。 頂上に達したとき、飯盒に残っていたご飯と缶詰を開けて朝食をとった。

 下山の時は、砂走りを通過した。 運動靴を覆うように草鞋をとりつけ、六角棒でブレーキをとりながら降って来た。 登山グッズなど手に入らない学生だったが、それなりに準備はしていたのだ。 

 しばらくぶりで、清平君にあった。 東京で、自営業の傍ら息子たちの少年野球に力を入れてきたという。 子どもが大きくなっても地域の少年野球の育成に夫婦で勤めてきた。 最愛の奥さんの葬儀の際、野球関係者の帳場が設けられていた。

 東京少年野球協会やスポーツメーカーの会長さんからの弔電もあった。『お母さんは、僕たちとお父さんが夕方遅く帰っても、笑顔で迎えてくれました。3人の男の面倒をよく見てくれてありがとう。』 富士登山をともにした、幼友達の清平君に励ましの言葉が出なかったが、そばに立ち暗黙の慰めをして来た。

2009年7月18日 (土)

雑木林

Photo069  八ヶ岳倶楽部の雑木林である。 ホームページを覗いたら、真吾さんのパパである柳生博さんが雑木林の剪定をしていた。

 柳生博さんは、俳優・司会者・タレント そして雑木林を利用した作庭家として有名人となっている。彼が土浦一高時代までの県南地方には、いたる所に雑木林が存在していた。 一級先輩だったマーチャンは同じような環境で過ごしたいたので、この雑木林は懐かしくもあり温かみを感じた。

 新制中学校になっての3年間は、小学校校舎の仮住まいであった。 1年生の頃は、教科書や参考書もあまりなく、先生方が作った教材で学んでいた。 学校まで6キロの道のりを歩いて登下校したので、周りの自然が生きた学習の場であったような気がする。

 登下校の際の雑木林は、第二のわが家であった。 同郷の仲間達とたき火をして餅を焼いたり、石を熱してぼろきれに包んで暖をとったりした。 こいぶちといって、篠で作った罠に稲穂をつけて小鳥を捕まえたりもしていた。 悪餓鬼だったが、叔母が地元の小学校の教師だったこともあって、中学校時代もずる休みはできなかった。 こんな無謀な生活を、戦後の混乱した時代や残されていた自然が許してくれていた。

 

2009年7月17日 (金)

マーチャンの梅雨明け

PhotoPhoto_2Photo_3  梅雨明けの真夏を迎えたというのに、季節はずれの桜の開花を載せて恥ずかしい。

 頚椎の手術を受けて、一ヶ月目を迎えた。 右腕の重みからくる首の付け根から肩の筋肉にかけての痛みも和らいできた。 宮崎接骨院のI先生のマッサージや県南病院のI先生が指導されたリハビリのお陰でもある。

 術後15日で現れた帯状疱疹、4日の治療開始から2週間になる。 最初の一週間は、痛みで辛い思いをしてきたが、土浦皮膚科の先生と看護師さんのお世話になって、ガーゼと包帯で覆われた傷も後退してきた。 当初は左半身と左腕が真っ赤に膨れ上がり、やがて薄茶色の膿が吹き出してきた時が一番つらかった。 今は傷跡が黒く変色して痛みも和らいできた。

 ある意味では、痛みを同時に受け入れて事が収まりつつあり幸いであった気がする。 自分の闘病記を記録する意味でブログに書いた。 夕方久しぶりに畑で1時間ばかり野菜の収穫を行った。 大根など抜く力も付いてきた。

2009年7月16日 (木)

百花繚乱

Photo_5Photo_6Photo_7  福島市の郊外に花見山が存在している。 自分の人生をかけて創り上げてきた方の、強い思いと努力に感動する。

 百花繚乱という言葉がある。 百花が咲き乱れ、色が織りなしている風景のことである。 花見山に咲き誇る数多くの花は、他の色と、自分の色を織り交ぜて自然のハーモニーを奏でていた。

 自己中心的に自分の色に染めようとする人が世の中には多い。 マーチャンもその一人であることは間違いない。 県南病院と土浦皮膚科で、頸椎と帯状疱疹の治療を続けていて、先生や看護師さんたちの心のこもった介護をしていただいている。 仕事の上だけでなく、痛みを共有して接してくれる人々が存在するのだ。 マーチャンは多くの人たちに支えられて今はとても幸せである。

 武者小路実篤の 『人は人 われはわれ されどなかよし』 言葉が改めて思い出された。

2009年7月15日 (水)

密航船

Photo_2Photo_3  世の中不景気だというのに、お花見の客が後を絶たない。 平和な現代日本の象徴でもある。

 今日もマーチャンの世まい言にお付き合いいただきたい。  今年に入って、ひろ兄さんと慕っていた従兄と常陸大宮の斎場でお別れをした。

 樺太本斗町生まれの彼は、学徒動員で樺太の国境警備に当たっていたが、ソ連軍の侵攻にあい一夜にして敗残兵となり、敷香から延々と単身内幌まで落ちのびてきた。 そしてマーチャンの家で一年以上の生活が始まった。 本斗町の家族は終戦直後内地へ帰ってしまったからである。

 雪解けの始まった春、彼とマーチャンは内幌町の南にある小さな漁村南名好の知人を頼って向かった。 内地へ一日も早く帰りたい彼と、息子を内地の祖父母のもとへ届けたいというおふくろの願いもあって、危険を伴う密航を企てたのである。

 南に向かう海岸線は、ソ連軍のジープや軍用トラックが走っていた。 日本へのソ連軍の参戦を求めた、アメリカは大量の軍需物資をソ連に与えていたのである。 幌を被った6輪駆動の大型トラックを、若いソ連兵を載せて猛スピードで通り過ぎていた。

 面白いことに、手を振ってヒッチハイクを試みたらトラックの幌の中に載せてくれた。 ソ連の占領も定着していたこともあって、彼らの中にも思いやりのある人間がいたのである。 思いもよらぬトラック輸送で、早めに南名好の漁師の家についた。 ひろ兄さんは今回が2度目の挑戦であった。 その時は、マーチャンの兄と一緒だった。

 雪を被った小さな家の薄暗い部屋で、天候やソ連の巡視船の様子を監視しながら、漁船での密航のチャンスを探っていた。 しかしながら、荒れ狂う樺太の海とソ連の巡視艇の警戒のため1週間で内幌のわが家へ戻ることとなった。 あの時、密航が成功していたらマーチャンの人生も大きく変わっていたかもしれない。

2009年7月14日 (火)

兄弟姉妹

PhotoPhoto_2Photo_3  塩釜神社にも子授かりのお札が売れていた。

 マーチャンは5人きょうだいであった。 茨城の地で3人、樺太で2人の妹が生まれた。 戦前戦後を通して、10年間樺太の地で5人の子どもを育てたおふくろの苦労がしのばれる。 長女がしっかりしていて、おふくろは救われていたようだが、兄弟の二人はよく喧嘩して困らせていた。

 兄は読書好きで、暇があれば家に籠って本を読んでいた。 マーチャンは、勝手気ままに山や川で友人と遊びまわっていた。  川でおぼれそうになって、上級生に助けられたこともあった。 

 おふくろや姉が編んでくれた毛糸の靴下や手袋・帽子をかぶって、白銀の大地を、夕方遅くまでスキーやソリで遊びに興じていた。 凍りついた靴下や手袋を脱がしてもらって、ぬるま湯で手足を温めてもらった。 

 木の実や草の実をあさって、野山を駆け回って耳たぶに山ダニが食いついていた。 塩水をしたして、ダニをとり出してくれたのもおふくろたちだった。

 二人の妹を伴って、手作りの生菓子や巻煙草などをバザーで商売していたおふくろの姿が目に焼き付いている。 戦後ソ連領となった内幌での生活は、『働かざる者食うべからず』の世界であった。 当時、親父は極寒のシベリアで抑留生活を過ごしていた。

 今経済不況で、家庭生活が成り立たず悩んでいる方々が多いと聞く。 自然の乏しい現代だけに苦労も多いだろうが、親きょうだいが心を一つにして頑張ってもらいたいと願ってやまない。

2009年7月13日 (月)

美しい風景

Photo_2Photo_4  どこにも出かけられないマーチャンは、春に訪れた塩釜神社の社務所前の庭園を選んだ。

 美しい景色に触れると、気分がすっきりする。  二日前の夕方、土浦皮膚科に行って来た。 勤め帰りの人も交じって待合室はいっぱいであった。 首周りと左半身に痛みを抱えるマーチャンは、待ち時間が辛い。

 部屋の周りにはベンチがあり、その角には、本が置いてあった。 3~4歳の男の子が、サンダルを抜いて、絵本を取り出していた。 『お母さんこの本読んでちょうだい!』下の子が乳飲み子をおんぶして、そばに立っている母親に頼んでいた。 お母さんは、その絵本を一緒に覗きこんで、小声で読み始めた。 絵本の登場動物の質問にもソフトに答えていた。

 次はお兄ちゃんの絵本の番となった。 同じような対応をしていた時、下の子が首をのばして邪魔に入った。 『そばからちょっかいを出してはダメ!』お母さんの注意は素直に受け入れられた。 下の子がマーチャンに関心をもったらしい。 たぶんエリマキトカゲのような醜態に興味を覚えたようだ。 『お化けだー?』と言い出した、『お隣の方にご迷惑をかけてはいけません!』お母さんは即座に注意した。

 『ちゃんとサンダルを抜いて、ベンチに腰掛けてお利口だね!』マーチャンは、この親子の素晴らしさに思わず褒め言葉を発した。  

2009年7月12日 (日)

桐の実

Sigaiti  久しぶりに一番橋にさしかかった。 梅雨の晴れ間で、駅周辺の町が鮮やかに見えた。

PhotoPhoto_2  ぼんやり立って、常磐線の通過を見ているとしばし傷の痛みが忘れられる。

 いつだったか二階建てのグリーン車が初めて連結されたとき、上野から土浦まで無料で乗れたことがあった。 座席は普通電車と変わらないが、二階から眺める沿線の風景はいつもと違ってとてもよかった。 新しく装った電車が最近多く見られるようになった。

Photo_4Photo_5Photo_6  線路わきの道路の茂みを過ぎると、桐の木が見えてきた。 

 ラクイラサミットの終日、麻生総理大臣が日本政府の桐の紋章のついたテーブルの前に立ってスピーチしていた。 この桐の梢には、桐の実がいっぱいついていた。  

2009年7月11日 (土)

父の日のプレゼント

PhotoPhoto_2 今年の父の日は、病室で迎えた。 希望する品物も無かったので『何にも要らんよ!』と言っていた。

 入院直前、下の娘がにこたまの高島屋で見つけた若向きのパジャマを送って来た。 その中に娘たち連盟のコメントが入っていた。 『回復したら、マーチャンのブログ取材に付き合ってあげるから頑張って!』といった内容だった。

 ニコニコした、着物を着せたら京人形のうなF薬剤師さんが、『お嬢さんたちのプレゼントいいですね!』と声をかけてくれた。 『父の日のプレゼントだー!』リハビリ師のすてきなI さんにも声をかけられた。 それでなくても暇人のマーチャンは、うれしかった。

 『マサルさんお変わりありませんか?』気さくで、身の回りの整頓までしてくれる面倒のいいY看護師さんが入って来た。 向かいの病室に同姓の患者さんがいたので、名前で声をかけてくれたのだ。 『マーチャンと呼んでくれると尚うれしいんだけど!』といたら『とんでもない、そんなことしたら院長先生と婦長さんに・・・・・・!』 この病棟はとても明るくて、職員の方々がどなたもやさしく、心地が良い。 

 退院直前の昼食の御膳が届いた。 思いをこめて美味しく御馳走になった。 これからは、家内手作りのそうめん・冷やし中華・食パンサンドなどの軽食に戻ってしまう。 

2009年7月10日 (金)

マーチャン農園のお友達

PhotoPhoto_2  退院後、初めて農園を訪れ写真に収めてきた。 前にも投稿した幼馴染のマコちゃんが、マーチャンの説明以上の作品をつくってくれた。 タヌキ除けのトマトハウスの金網と藁の代わりのビニールシートに地這キュウリの苗を几帳面に植えてくれた。

 『暇な老人を一人連れて行きます。』数か月前、そんな連絡が入って板橋からセルシオを飛ばしてやって来た。 その老人とは色白のSさんで、マコちゃんの後輩であった。 退職後東大で講師も務めているという。 畑仕事は初めてで炎天下帽子もかぶらず半袖で草取りを始めた。 「青のり瓢箪」というあだ名を都会の中学生に付けられていたハンサムなS君は、日焼けをご希望のようだった。 マーチャンも10年前は、彼らと同じように元気だった。

Photo_3Photo_4Photo_5  きのうは教え子のHさんとお馴染みのkazuさんが草取りをしてくれた。 『趣味でやっているんだから手伝わないよ!』と言っていた家内もマーチャンの代役をつとめなければならない。

3年前に苗木で買ってきたキュウイが大きくなってきた。 ツルで伸びるキュウリとゴウヤも大きくなってきた。 このアーチも皆さんの合作である。 マーチャンは農園のお友達に感謝している。 

2009年7月 9日 (木)

帯状疱疹

PhotoPhoto_2  久しぶりに県南病院へ定期検診にやって来た。 U先生はじめ多くの看護師さんやお世話になった方と会話を交わすことができた。 懐かしい寄宿舎へ帰って来たような気分になった。 毎朝この辺りを、パジャマを着たエリマキトカゲが首や腕を振りながら散歩していた。

『病院の外へは出ないで気をつけて行ってらっしゃい!』看護師さんの注意も忘れて、裏の杉林をくぐって畑に出た。 マーチャン農園のナスやキュウリより見事な野菜たちが藁の寝床ですくすくと成長していた。

Photo_3Photo_4Photo_5 マーチャンが入院していた二階の病棟である。 談話室で語り合ったTさん・Oさんそして同じ日に手術したNさんの姿はない。 みんな希望を持って退院して行ったのだ。 4日の土曜日に水郷公園で再会を約したTさん・Oさんとの再会は、マーチャンの帯状疱疹で延期となってしまった。

 幼いころ患った水泡の細菌が、マーチャンのすきを狙って左半身を襲った。 土浦皮膚科の先生や看護師さんたちに同情されながらお世話になっている。 年齢が高いほど症状が強く治るのが遅れるという。 今やっと頂上を超えたところである。 

2009年7月 8日 (水)

脳神経外科による脊髄脊推疾患手術

Photo030Photo_2  トロピカルズーの動物たちは、真夏の直射日光を浴びてぐったりしていた。

手術後6日目、朝の回診にU先生方が入室してきた。 首輪がきついので、ゆるめて顎まで被っていた。 『変わりないかな? ちょっとその首輪 まるでエリマキトカゲじゃないか!』若いU先生らしい単刀直入の診断であった。 自分の今の姿を振り返って、思わず吹き出してしまった。 

 昨年の8月2日の読売新聞に『神経を熟知し、脊髄脊推をまもる』と題した医の達人 金 彪氏の話が掲載されていた。

 腰椎や頚椎の疾患を持つ人は、65歳以上の4人に1人は抱えているという。 脳神経外科は、神経全体の病態を熟知し、顕微鏡を使ったマイクロサージャリー(精密手術)を行っているという。 マーチャンがお世話になった県南病院は、金彪氏が推奨する全国で20の病院に入っていた。 同病院のホームページによると昨年は、70例の頚椎手術を行っていた。

 マーチャンの体に巻きついていた、点滴・尿管・傷口に挿入されていた320グラムの出血管が順次外されていった。 そして10日目には、切り傷をホチキスのような金属で止められていた物が切り取られた。 血液検査・MRI・レントゲン・CT検査の結果も良好であった。 ちなみにMRIは磁気を利用し、CTは放射線で撮影されることを知った。

『仏滅と先負に退院するのはどうか?』 同室の先輩Hさんが家族の人と語っていた。 「先負の午後」ならばと考えて、13日目の土曜日に懐かしい我が家へ帰って来た。 マーチャンの第二の人生の岐路に当たって、U先生をはじめ、多くの方々の善意とご支援を戴いた。 ここに深甚なる謝意を申し上げ、入院生活の報告を終わる。

2009年7月 7日 (火)

病室の先輩・後輩

Photo074Photo_2  熱気球がサトウキビ畑を横切って、水をたっぷり含んだ牧草地にランデングした。 牽引車の荷台に乗って、無事に地上に戻って来た。

『医学的には手術の翌日からは歩いて、普通食をとってもいいですよ!』 とU先生がおっしゃった。 翌朝ベッドごと廊下やエレベーターに乗って、レントゲン室に運ばれた。 レントゲンと・CTを撮っている間は何とか我慢できたのだが、若い時よくかかった車酔いと同じ症状に襲われた。 『乗り物に弱いのは、お父さんに似たのだ!』あとで娘たちと家内との電話での話題の餌食にされてしまった。

 『マーチャンの前に手術した義伯母さんは、元気に歩いているよ! 元気だしなよ!』同室・同病のTさんが、声をかけて励ましてくれた。 マーチャンより10歳若いTさんと、更に若い埼玉のHさんが入院直後から、やさしく励ましの言葉をかけてくれた。 若い先輩との共同生活のスタートとなった。

 やさしいK先生と頼りにしている担任のU先生が、看護師さんや薬剤師さんを伴って午前と午後の回診にやってくる。 『先生、目眩がして気持ちが悪いんです。腸の働きが止まってしまいました。』すっかり幼児に帰って、泣き言を訴えた。 『そのうち動くだろう!』U先生が笑顔を浮かべて出て行った。 午後はリハビリ開始の予定で、若くて素敵なI先生がやって来た。 『無理なようなので、夕方また来てみますね。』 ベッドに横たわって2日目辺りは、最高に腰の痛みがはっしてくる。 動くに動けない状態でいた時、Iリハビリ師さんがやさしくマッサージしてくれた。 仕事とはいえ、痛みを和らげてくれた務めには恐縮した。

 3日目の朝、7時45分待望の朝食が運ばれてきた。 普通食で、病院にしては家庭的な美味しい料理がそろっていた。 箸を持つ肩と腕の痛みを我慢して、頬張った。 やっとルームメートと同じことができるようになった瞬間であった。 

2009年7月 6日 (月)

術後の呻き

PhotoPhoto_2Photo_3  マーチャンの人生を乗せた高山列車キュランダ号が、アリ塚のような断崖にさいしかかった。

 夕やみ迫る頃、全身麻酔から目を覚ました。 ナースセンターわきの集中治療室に酸素マスクを付けて横たわっていたのである。 不覚にも吐き気と痛みに耐えかねて 『OO助けてくれ!』と家内に言ってしまった。 あとで聞いた話によると『看護婦さん助けてくれと言っているんですが。』 『はいわかりました。』 といった冷静な対応であしらわれ、笑い話の種になってしまった。

 夜勤の看護師さんが忙しくナースセンターを出入りしていた。 吐き気をも擁しても出すものがない。 『大丈夫ですか?』OOとは違ったやさしい声が何度か聞かれた。 赤いランプの点滅とかすかな音が聞こえてくる。 おぼろげな記憶で長~い一夜が明けた。

 術後家内はU先生から手術の経過を説明していただいたという。 マーチャンの憶測から辿ってみると、全身麻酔を施されたあと人工呼吸器などを装着して手術に入ったようだ。 下半身のタイツは、血液の正常な循環を助けているという。 頚椎の4~6の狭まった骨が広げられ、人造骨でつなぎ固められていた。 2時間に及ぶ手術の結果マーチャンの中枢神経は正常に戻していただいたのだ。

2009年7月 5日 (日)

頚椎の手術

PhotoPhoto_2  4か月前のこの男に、頚椎手術のゴーサインが出された。

『15日に入院して16日に手術しましょうか?』U先生の返答を聞いて、喜びと期待が沸いた。 先生から手術治療の詳しい説明があった。手術に対する恐れが無いと言ったら嘘になる。 入院早々像影剤注入による脊髄のレントゲン撮影が行われた。

 背骨周辺に麻酔注射が打たれた。 歯医者さんの麻酔注射より強い痛みが走った。 人一倍注射嫌いで弱虫なマーチャンが3~4度うめき声を発しているあいだに『注入管が入りましたよ。 髄液を抜いて造影剤を入れます。』わずかな量と短時間の処置だったのだろうが、とても長く感じられた。

 翌日午後3時前、ベテランの看護婦さんが二人部屋に迎えに来られた。 K看護師さんが『私が手術に立ち会います。心配ありませんからね。』と丁寧に語りかけてくれた。 下半身にきつめのタイツを履かせられた。 サイズの合う首輪も用意された。

 手術用の衣服に着替えて、ベッドごと手術室に運び込まれた。 手術室の内部やお世話になるU先生をも見届けるゆとりはなかった。  『私は、麻酔師のOOです。』他に何か語りかけておられた。

 次の瞬間、マーチャンの記憶は完全に途絶えた。 夢も幻覚もない無の世界だった。

 

2009年7月 4日 (土)

手術前の心の揺れ

PhotoPhoto_2Photo_3  『あまり心配しないで、普段通りの生活をされた方がいいですよ。』採血の時ベテランの素敵な看護婦さんが声をかけてくれた。

 6月11日 意を決して県南病院の外来を訪ねた。 若くてテキパキとしたハンサムなU先生との初対面である。 『脊髄造影剤注入撮影は、手術前提の検査ですよ。』と言われた。 『先生!薬の治療では治らないのですか?』わかりきった愚問を投げかけた。

 数ヶ月にわたる両腕の痛みと痺れは、日常生活にも支障をきたしていた。 ましてや、趣味の旅行や畑仕事は絶望的だった。 この辛い状況から一日も早く脱却したい一念で『先生お願いします!』と言い切った。 しかしだ。

 左心室肥大で、7年ほど前から協同病院で2か月ごとの診察を受けている。 担当の信頼しているY先生は『頚椎の手術 大丈夫!』と言ってくれていた。 県南病院での心電図・MRIの血管撮影が行われた。 『首筋の血管がよく見えないので、エコー検査をしよう。』U先生の一言ひとことが、『もしや手術もできないのか?』と心配をかきたてた。

2009年7月 3日 (金)

頸椎脊柱管狭窄症

PhotoPhoto_2  娘から『お父さん痛いからといって、ゴロゴロしちゃだめだよ! リハビリしたりブログを書いたり元気だして!』厳しい電話でのメッセージがあった。

 術後の首周りから両腕に広がる辛い痛みとの闘いが続いている。 定年退職後、公民館長を務めていた3年間に花壇づくりに時には5時起きで熱中した。 同時に、灌木と篠で覆われた300坪に近い畑作りにも取り組んだ。 お陰で公民館の花壇は、県議会議長賞を受賞し、我が家の野菜たちは多くの親戚知人に喜んでいただいた。

 今年の3月に入って、両肩と腕の痛みと痺れを感じるようになり大学付属病院へ通うようになった。 ロキソニン・ミオナール・メチュバールなどの薬とサロンパス・睡眠剤で痛みに耐えていた。 5月に入って、家内が近所の人に勧められた宮崎接骨院で治療を受けることとなった。 肩の凝りが解され、痛みが和らいだが、痺れは残った。

 『一度脳神経外科で詳しい診断を受けてみた方が、安心できるのではありませんか?』若くてやさしいI先生がこの道の権威である県南病院への紹介状を書いてくださった。 大学付属病院でレントゲンだけは撮って『頸椎が狭まっているため、痛み痺れの原因となっていることが予想されていた。』

 6月8日県南病院で、T院長に会う。 レントゲンを見て、午後にはMRI検査となった。 20分ほどポンポン機船の中にいるような騒がしい音がしていた。 『頸椎脊柱管狭窄症・頸椎症脊髄症』の診断が降りた。 『脊髄に造影剤を注入しての検査を受けるかどうか考えてきてください。』 頚椎の上から4.5.6の部分が異常な状態であることが撮影フイルムではっきりしていた。 『畑仕事のやりすぎが原因ですか?』と尋ねた。 『そればかりでなく体質にもよるんだよ!』と教えてくれた。

2009年7月 2日 (木)

ブログ再開

PhotoPhoto_2  今年の初日の出を撮った娘の写真である。

 しばらくの間ブログを休んでいた。 というよりブログを投稿できなかった。 頚椎脊柱管狭窄症の手術を受けたためである。 我が家も30年が経過して、何回もリホームしてきた。 マーチャンもここ10年の間に、身体の各所の治療でお医者さんにお世話になって来た。 今回は最も重い、全身麻酔を伴う頸椎損傷の手術を受けることとなった。

 入院中は、先生方・看護婦さん・F薬剤師さん・Iリハビリ師の方々には暖かい看護を頂きお世話になった。 この病院を紹介してくれた宮崎接骨院のI先生にも感謝でいっぱいである。

 県南病院の脳神経外科の若い名医、U先生のお陰で先週土曜日に13日ぶりで我が家に生還できた。 これからしばらくの間、闘病記を綴るつもりである。

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